人生で一番美味しい料理
「なあ、あの『ケモノ』、食べれるんじゃないかな」
その日の夜、どうにか採取してきた海草と木の実のようなものを無理やり口に押し込めながら、俺は妻に言ってみた。妻はまだあの『ケモノ』をきちんと見たわけではなかったが、『食べれる』という言葉にぴくりと反応し、「そうかもしれない」と言った。
「どうやって殺そうか」
「簡単じゃない、思い切り殴れば良いのよ」
「でも、あの巨体だぞ」
人一人くらい簡単にへし折れそうな『ケモノ』の逞しい腕を思い出し、俺は思わず身震いする。しかし妻は淡々と、「じゃあ砂浜までおびき寄せて、海に溺れさせたら」と言った。名案のような気もしたが、難易度では同じような気がする。砂浜におびき寄せるくらいなら、一思いに殴りかかった方が、簡単ではないか。
「あなたの好きなようにすれば良いわ。私は、とりあえず火を起こして待ってるから」
妻はそう言って、さっさと横になった。昼間の熱を宿したままの砂浜に埋もれるようにして、俺とアカリも眠った。
翌朝起きた俺は、既に空腹に囚われていた。それも当たり前だ。動物性たんぱく質を、もう何日も摂取していない。この島には小動物はいないのだろうか? あの『ケモノ』は一体、何を食べて生き延びているのだろう? ああいった大きな動物が生きているということは、どこかに水源や、食材となり得る小動物が生きているはずなのだが。
ここに流れ着いた時は、食材くらいどうにかなるだろうと思っていた。だがこの島にいるのは、鳥と虫、そしてあの『ケモノ』くらいなのだ。鳥や魚なら捕まえられそうなものだが、いくら必死に石を投げつけたり手で掴もうとしたところで、文明に慣れてしまった俺たちには、到底捕まえることなど不可能だった。
「お早う、アカリ」
「お早うパパ」
アカリは眩しそうに、昇ってきた太陽の光に顔をしかめた。妻はというと、ぼーっと足元の砂粒を見つめていた。
「お早う」
「…………」
妻は目で返し、また砂粒を見つめ始めた。
「今日は俺、あいつを殺すことにしたから」
「そう」
妻はそっけなく答え、また身を横たえた。必要以上のエネルギーを消費しないように気をつけているようだった。
「それじゃあアカリ、もうちょっと寝てていいぞ。パパが美味しい肉を捕って来るからな」
「うん」
アカリは一つ肯いて、妻の隣に寝転がった。俺は一人立ち上がって、今から立ち向かう相手への攻撃のための、準備を始めた。
やがて準備が出来て、俺はジャングルへ入った。微かな物音も聞き逃さないように注意しながら、進んでいく。あいつが現れたら、こちらの存在に気づかれないように後をつけよう。そうすれば、水源の在り処も分かるかもしれない。
前日までにつけていた『道』の終わりが見えた頃、俺は立ち止まった。ここから先に行くのは、危険だ。――だが、ここから先に行かなければ、あいつが現れたとしても、気付かれずに後をつけるのは困難だ。こうとなれば仕方ない。俺は慎重に踏み出し、そろそろと『道』をつけながら進む。
どたたん。
突如として、あの重々しい足音が聞こえた。あいつだ。
「…………」
俺は息を殺して、周りを見渡す。木々の間、草の中、頭上。ゆっくり頭を巡らせて見ると、――……いた。丁度俺の右方向、数十メートル先の木の間。あいつがのっそりと横切っていくのが見えた。俺には気付いていないようだ。
どたたん、どったん。
あいつはのろのろと進む。俺を追いかけていたときとは大違いのスピードだ。俺も、一定の距離をあけてその後を進む。幸いなことに、あいつが進んだ後には、俺がつけたのと同じような『道』が出来ていた。これなら、もし見失っても後で辿りなおすことが出来る。
しばらく行った辺りでどすん、という音がして、あいつは腰を下ろした。腰を下ろしたと言っていいのかは分からないが、ともかく座り込むような動作をした。俺は耳を澄ます。
ちょろちょろ、と水音がした。それと同時に、あいつがごっくんと咽喉を鳴らすような音も聞こえた。しばらくして、あいつは立ち上がった。座っていた時と立ったときの身長はほぼ同じようなものであったが、それでも間違いなく立ち上がり、それから少し前方に進んだ。俺ははやる気持ちを抑えながら、あいつが座り込んでいたところに眼を凝らした。そこには果たせるかな、僅かな岩のくぼみから、水が流れ出ていた。――水だ、水源だ。すぐにでも駆け寄って咽喉を潤したい欲求にかろうじて逆らい、俺は前へ進んだ。
その時、ぱきりと音がした。下を見ると俺の足が、小枝を踏んでいた。あいつはおもむろに振り返り、『俺を見た』。
「ぅあ」
俺は自分の口を塞いだが、既に遅い。あいつはまた、俺を標的に見据えて、先ほどまでの鈍足が信じられないほどの速さで迫ってきた。
「……う、あああ……!」
俺はみっともなく叫びながら、元来た『道』を走った。ようやく水源を見つけたのだ。こんなところで死ぬわけにはいかない、俺がこんなところで死んでしまっては、妻とアカリが生きて行けない……!
俺は死にたくない、絶対生き延びて、家族三人で日本に帰るんだ。
全力で走り続け、もう、すぐ後ろまであいつが迫って来ていた。その荒い息遣いも耳に入ってくる。死にたくない、死にたくない……!
砂浜が見えてきた。妻とアカリが並んで寝ているのが分かる。あともう少しだ、あともう少し……!
砂浜への境界線を、俺は跳躍した。砂浜に着地して、更に転がるようにしてジャングルから遠ざかった。それから身を起こし、今出てきたジャングルの方を見た。そこには、あいつがいた。俺が、ジャングルと砂浜の境界の所に掘っておいた縦穴の中に、もがくあいつがいた。直射日光をまともに浴びて、そいつは苦しんでいた。――思ったとおり、こいつは日光に弱かったのだ。
「おい、見てみろ! とうとうあいつを捕まえたぞ!」
俺は勝利の声を上げた。妻とアカリも起きてきて、俺と共に、穴の中を覗いた。
「パパ、これ、食べるの?」
「そうだぞ、それにさっき、水源も見つけたんだ。だから、こいつを食べて、水も飲める!」
俺ははしゃいでいたが、アカリと妻は、苦しみ続けているあいつを見下ろし、首をかしげた。緑色をしている得体の知れない生き物を食べるということに、どうも同意しかねているものらしい。
「何か気持ち悪くない?」
と、妻は言った。
「だって緑色なんて……、植物みたいじゃない」
「植物?」
思わず聞き返した俺は、胸に悪い予感がよぎったのを感じた。
作品名:人生で一番美味しい料理 作家名:tei