人生で一番美味しい料理
念のために一応砂浜を見回してみてから、俺は何も得ることが出来ずに妻とアカリの元まで戻った。妻は、俺の手の中に何かを期待するように見つめ、言った。
「貝、あった?」
「なかったよ」
「…………」
妻は、俺を見上げた。眼の下には隈が出来、水分を失った瞳は、何の心もなく俺を映していた。
「私たち、死ぬわ。きっと死ぬのよ」
「なんでそんなことを言うんだよ。アカリの前だぞ」
アカリを見ると、全くの無表情で、俺たちの会話を聞いているのかいないのか、ぼんやりと水平線を眺めていた。
「ちゃんとした会社のツアーだったんだ。飛行機が墜落したと分かったら、ちゃんと救援を寄越してくれるはずだ。だから、それまでの辛抱だ」
「それまでっていつまで」
「それは……」
それは、分からなかった。目的地のすぐ近くに墜落したとかならまだしも、ここはきっと、名もないような小さな島だ。太平洋のど真ん中だったりするかもしれない。ここがどこなのか分からないから、確証などどこにもなかった。俺が口にしたのは、いわゆる『希望的観測』というやつだった。妻はそれを見透かしたように、冷ややかな口調で、俺の希望を突き放す。
「分からないんだったら、下手に喜ばせるようなことを言わないでよ。私たち、もう助からないんだわ」
「……諦めちゃだめだ、俺たちは生き延びるんだ」
「じゃあ、水は見つかったの」
「…………」
俺は言葉を失った。妻はそんな俺を、何の感情も込めない眼で見て、それから何も言わなくなった。
水だ、水を見つけなければいけない。
俺はまた、落ちていた流木を手に、木々の中へ分け入った。
この島は、本当に小さな無人島だ。ここに流れ着いてから、俺は試しに砂浜をぐるりと一周してみた。すると、太陽がほんのわずか傾く程度の時間しか要さなかった。二時間程度で、元いた地点まで戻ってこれたのだ。砂浜を少し内陸に進むと、そこにはジャングルと形容しても良いほどに、木々が乱立している。地面からは伸び放題の草が伸び、およそ人の手など入ったことがなさそうであった。
俺は、何度か入ってつけていた『道』を歩き、どこかからか水の音はしないか、耳を澄ませた。どんなに小さな物音でも聞き逃すまい、と目を閉じていたが、やはり水音などしない。聞こえるのは微かな葉の擦れる音と、昆虫や鳥類の鳴き声だけだった。
気を落として俺が引き返そうとすると、その時、何か大きなものがどたんどたんとこちらに向かって来る音がした。もしや、と振り返ると、案の定、あの『ケモノ』が、俺めがけて走ってきた音だった。
「うああ!」
俺は叫んで、その『ケモノ』――緑色の長い毛に包まれた毛むくじゃらの生き物――から、少しでも離れるべく、全力で走った。ここに漂着した初日にも、こいつは俺たちの前に現れた。ジャングルの中に、突然ぬっと姿を現したのだ。その時持っていた木の枝など、何の役にも立ちそうになかった。だから、俺たちはそこから必死に逃げ出したのだ。
『ケモノ』は、緑色の毛に覆われた、オランウータンのような生物だ。なんという生き物なのか。それとも、未発見動物なのだろうか。そうすると、俺たちは世紀の大発見をしたわけだ。
暗澹たる空しさに襲われながら、俺はどうにか砂浜までたどり着いた。あの『ケモノ』は、そういう習性なのか、砂浜までは追ってこない。それは、初日に経験して分かっている。動悸をしずめつつ、ジャングルの奥へと戻っていく『ケモノ』を見る。見れば見るほど、あいつは食材に適しているような気がしてくる。唾液が口に満ちてくる。
作品名:人生で一番美味しい料理 作家名:tei