人生で一番美味しい料理
悪い予感は、見事に的中していた。
緑色の毛に覆われた『ケモノ』の死体は、流木で叩いて尖った石で表皮を裂いた途端、その体内から水分と、どろどろの消化液にまみれた、何かの残骸をあふれさせた。それだけだった。『ケモノ』は、動物ではなかった。いわゆる、食虫植物の進化したような生物だったのだ。逞しい腕に見えていたモノは、腕ではなく、蔓が変形したもののようだった。緑色の毛、と見えていたモノは、毛ではなく、苔のようなものだった。
俺たちは絶望した。
こんな、身体に肉がついていない、水と消化液で構成されているような生き物に、食材としての価値なんて無い。肉は無い――食べることは、出来ない。
夕日に染まる砂浜で、俺と妻とアカリの三人は、食虫植物の屍骸の傍で、ぼんやりとしていた。誰も、何一つ言葉を発しなかった。今日一日、この植物と走りあいをし、それが死ぬのをじっと待ち、一日は浪費されてしまった。体力も、消耗してしまった。かろうじて妻とアカリが採取した海草は干してあったが、それだって何の栄養もなさそうな、ただの海草だ。俺たちは、希望を失ったのだ。
「でも、……水が確保できただけでも良かったよ。人間、水さえあれば――」
「水だけじゃ、とても生きて行けないわ」
妻は俺の言葉を遮って、言った。その言葉には、怯えや恐れは見当たらなかった。しっかりとした芯を持っていて、揺らぎそうも無かった。
「海草と水だけじゃ、いずれ死んでしまうわ」
「…………」
「何かを食べなけりゃ」
妻はまっすぐに、落ちていく夕日を見つめた。
「何かを食べなけりゃ」
そう、繰り返し、彼女は呟いた。
翌日になって、俺は再度ジャングルへ足を踏み入れた。昨日見つけた水源から、水を少量持ち帰るためだ。妻が器用に葉っぱを丸めて作った入物を持って、『道』を辿った。とにかく、空腹だった。腹が空きすぎて、もう、水を飲んだところで、余計腹が空くだけなような気もした。何も考えたくなかったし、事実何も考えることが出来なかった。
何か、何でも良いから、腹に入れたかった。よっぽど、そこらに転がる石でも引っ掴んで、口に入れてしまおうかと思った。でも、疲労がそれすら許さなかった。空っぽの胃が、きりきりと痛んだ。何かを入れてくれと、俺に訴えている。腹が減った、腹が減った。
「……何かを食べなけりゃ……」
死んでしまう。
空腹と、水を入れた入物を抱えて、俺は元来た道を引き返す。こんなに腹が減っていても、未だに足が動くのが不思議ですらあった。
砂浜が眩しい。疲れきって、俺は妻に水を渡した。
「……アカリは」
声が掠れた。妻は何も答えずに水を飲み、それから、中断していたらしい火起こしを再開した。板切れに少し窪みをこしらえ、そこに乾いた葉をちぎったものを入れ、あとはひたすら、棒で擦り続ける。俺は妻の、真剣な様子を見て、何も感じなかった。もう、ただ眠っていたかった。けれど、アカリのことも気にかかる。
結局俺は、その場で横になって、眠ってしまったらしい。眼が覚めたころにはもう夕方で、俺はぼーっとした頭で、妻を見た。妻は火を起こすことに成功したらしく、少しばかり晴れやかな顔で俺を見た。
「じゃああなた、食事にしましょう」
「……食事?」
『あなた』なんて言われたのは、ここに来て初めてだ。俺は不思議に思って、妻が起こした火を眺めた。そこには、座る妻の隣には、何か大きな生き物の肉が、ぶつ切りにされて置かれていた。何だか妙に色の白い、どこかで見たことのあるような、そういう肉だった。けれど、空腹に支配された俺の脳は、それが何であるかを思い出すことを拒否した。そんなことより、今、この肉を食べて、自分の栄養源とすることが、何よりも重要であると、俺の脳は囁いた。
「肉よ、あなた。さあ、焼いて、食べましょう」
「うん」
久しぶりの食事。念願だった、弾力のある肉を口にすることが出来て、俺はもう満足だった。満ち足りていた。俺の人生で一番美味しい、妻の手料理だった。
アカリの、所々赤い模様のある服だけが散らばっているのは少し気にかかったが、妻が「泳ぎに行ったのよ、もう帰ってこないわ」と言ったので、それももう気にしないことにした。
やがてその生き物の、細い腕の肉を食べ終わった頃、何処からか、ヘリコプターの近づいてくる音が聞こえてきた。
作品名:人生で一番美味しい料理 作家名:tei