人生で一番美味しい料理
この足は、本当に俺のものなんだろうか。
鬱蒼と茂った草という草をかき分け進みながら、俺は頭上高く広がる、抜けるような青空を見上げた。もつれて上手く動かない足を何とか運び、せめて雨でも降ってくれないか、と願った。こうも晴れていては、空気が乾いて仕方が無い。早く水源を見つけなければ、直に俺たちは、干からびて死んでしまう。食料よりも、水分の方が先決だった。
がさりと背後で物音がし、俺は思わず地に伏せる。この島に流れ着いた最初の日に、得た教訓だった。
物音がしたら、ともかく身を隠すこと。
どうやら今回は、昆虫の類が立てた音だったらしい。俺はため息をつきつつ、身を起こし、再度歩き出した。
「あなた、これなんかどうかしら」
そう言って妻が指差したのは、ある旅行会社のチラシだった。南国の諸島をいくつか巡る、簡単で安価なツアーのようだった。
「現地のガイドもついてこの値段だし、これは行くしかないわよ」
妻は強引に決め、その日のうちに電話で予約を完了してしまった。その会社は、前にも幾度か利用したことがあったため、俺も一応の信頼は寄せていた。確か、サービスもなかなか行き届いていたはずだ。
今回の旅行は、子供が五歳になったため、ようやく実現した。俺と妻は二人とも旅行が好きで、出会いは香港、結婚式はバリ島で挙げた。けれど俺の仕事の都合もあって、結婚してからはずっと東京暮らしだった。ようやく海外に行けるかという時期になったら、アカリが妻の腹の中にいることが判明した。流石に妊娠している妻を連れて海外旅行なんぞには行けない。それで、アカリが幼稚園に入るまでは、旅行は保留という話になったのだった。
「アカリも行くの?」
薄桃色の園服を着たアカリが、きょとんと首をかしげて俺と妻を見上げていた。
「そうよ、一緒に海外旅行なのよ」
妻はアカリを抱き上げて、頬ずりをした。アカリはくすぐったそうに身をよじる。俺たちは、幸福そのものだった。
「もう、何日経ったかな」
砂浜に、くたりとしゃがみこんだ妻の背に、そう聞いてみた。答えは返ってこない。妻は、何の反応も返さない。ただ、あちこちが破れてぼろ雑巾のようになった赤いシャツが、呼吸とともにかさかさと揺れるだけだった。
「おい、アカリは?」
「…………」
「おい、」
「アカリちゃんなら、そこよ」
妻はそこ、と言うが、具体的に「そこ」がどこを指すのかは示してくれない。俺は仕方なく、広い砂浜を見渡す。
砂浜と言っても、ハワイのように綺麗に整備されているわけじゃない。あちこちに岩のようにごつごつとした石ころが落ちていたし、所々にぼつぼつと大きな穴が開いてもいた。どこかからか流されてきたらしい流木もあったし、その切れも落ちていて、アカリの小さな足で踏んだら、大変だ。
「アカリー」
俺は、あまり大声を出さないように気をつけながら、アカリを探した。
飛行機が墜落した時、アカリは腕の骨を折った。妻は頭を強く打ったようで額に血を垂らしていたし、俺は俺で、左腕と脇腹に何かが刺さったようだった。けれど、その何かが何なのか、未だに分からない。下手に抜いたら出血するだろうし、今のところは身体を動かしても大丈夫そうなので、放っておいている。
アカリは、生まれたときから丈夫な子だった。風邪一つひかなかったし、転んでも怪我をしたことがなかった。そのせいか今回の骨折のことも、何が起こったのかあまり理解できていないようだ。だから、痛いのも我慢して、あちこち歩き回っているのだろう。
「アカリー、どこだ」
少し歩いた頃に、アカリは見つかった。流木の陰にうずくまっていた。
「アカリ、何やってるんだ」
「……貝を探してるの」
「貝?」
「貝を採ってきたら、お母さんが料理してくれる、って」
「アカリに採って来いって言ったのか?」
アカリはこくんと肯いた。
「でもアカリ、腕痛いだろう」
「痛くない」
「痛いに決まってる。もう良いよ、貝はお父さんが探すから、アカリはお母さんの所に戻りなさい。あまり歩いちゃ危ないよ」
アカリはまた無言で肯いて、折れた腕をぶらぶらさせながら、戻って行った。
アカリは、何でもよく聞く、いい子だ。こんな事態になってまで、妻の言う事に従って、一人で貝を探している。しかし、妻はアカリよりも腕が自由に動かせるだろうし、何より大人だ。アカリを働かせるなんて、一体何を考えているのだ。
貝料理、と聞いて、俺は胃液も何もないすっからかんの腹を押さえた。耐え難い空腹感に、思わず涙が出た。妻はいつも、海外旅行の間に仕入れてきた材料とレシピで、いろいろな料理を作ってくれた。俺とアカリと妻との三人で、食卓を囲んだあの懐かしい日々。あれが、たった何日か前まで享受できていた『当たり前』だったなんて、信じられない。ここには食卓も、料理も、一家団欒もない。何も無い。あるのは絶望と空腹、そして死の危険だけだ。
鬱蒼と茂った草という草をかき分け進みながら、俺は頭上高く広がる、抜けるような青空を見上げた。もつれて上手く動かない足を何とか運び、せめて雨でも降ってくれないか、と願った。こうも晴れていては、空気が乾いて仕方が無い。早く水源を見つけなければ、直に俺たちは、干からびて死んでしまう。食料よりも、水分の方が先決だった。
がさりと背後で物音がし、俺は思わず地に伏せる。この島に流れ着いた最初の日に、得た教訓だった。
物音がしたら、ともかく身を隠すこと。
どうやら今回は、昆虫の類が立てた音だったらしい。俺はため息をつきつつ、身を起こし、再度歩き出した。
「あなた、これなんかどうかしら」
そう言って妻が指差したのは、ある旅行会社のチラシだった。南国の諸島をいくつか巡る、簡単で安価なツアーのようだった。
「現地のガイドもついてこの値段だし、これは行くしかないわよ」
妻は強引に決め、その日のうちに電話で予約を完了してしまった。その会社は、前にも幾度か利用したことがあったため、俺も一応の信頼は寄せていた。確か、サービスもなかなか行き届いていたはずだ。
今回の旅行は、子供が五歳になったため、ようやく実現した。俺と妻は二人とも旅行が好きで、出会いは香港、結婚式はバリ島で挙げた。けれど俺の仕事の都合もあって、結婚してからはずっと東京暮らしだった。ようやく海外に行けるかという時期になったら、アカリが妻の腹の中にいることが判明した。流石に妊娠している妻を連れて海外旅行なんぞには行けない。それで、アカリが幼稚園に入るまでは、旅行は保留という話になったのだった。
「アカリも行くの?」
薄桃色の園服を着たアカリが、きょとんと首をかしげて俺と妻を見上げていた。
「そうよ、一緒に海外旅行なのよ」
妻はアカリを抱き上げて、頬ずりをした。アカリはくすぐったそうに身をよじる。俺たちは、幸福そのものだった。
「もう、何日経ったかな」
砂浜に、くたりとしゃがみこんだ妻の背に、そう聞いてみた。答えは返ってこない。妻は、何の反応も返さない。ただ、あちこちが破れてぼろ雑巾のようになった赤いシャツが、呼吸とともにかさかさと揺れるだけだった。
「おい、アカリは?」
「…………」
「おい、」
「アカリちゃんなら、そこよ」
妻はそこ、と言うが、具体的に「そこ」がどこを指すのかは示してくれない。俺は仕方なく、広い砂浜を見渡す。
砂浜と言っても、ハワイのように綺麗に整備されているわけじゃない。あちこちに岩のようにごつごつとした石ころが落ちていたし、所々にぼつぼつと大きな穴が開いてもいた。どこかからか流されてきたらしい流木もあったし、その切れも落ちていて、アカリの小さな足で踏んだら、大変だ。
「アカリー」
俺は、あまり大声を出さないように気をつけながら、アカリを探した。
飛行機が墜落した時、アカリは腕の骨を折った。妻は頭を強く打ったようで額に血を垂らしていたし、俺は俺で、左腕と脇腹に何かが刺さったようだった。けれど、その何かが何なのか、未だに分からない。下手に抜いたら出血するだろうし、今のところは身体を動かしても大丈夫そうなので、放っておいている。
アカリは、生まれたときから丈夫な子だった。風邪一つひかなかったし、転んでも怪我をしたことがなかった。そのせいか今回の骨折のことも、何が起こったのかあまり理解できていないようだ。だから、痛いのも我慢して、あちこち歩き回っているのだろう。
「アカリー、どこだ」
少し歩いた頃に、アカリは見つかった。流木の陰にうずくまっていた。
「アカリ、何やってるんだ」
「……貝を探してるの」
「貝?」
「貝を採ってきたら、お母さんが料理してくれる、って」
「アカリに採って来いって言ったのか?」
アカリはこくんと肯いた。
「でもアカリ、腕痛いだろう」
「痛くない」
「痛いに決まってる。もう良いよ、貝はお父さんが探すから、アカリはお母さんの所に戻りなさい。あまり歩いちゃ危ないよ」
アカリはまた無言で肯いて、折れた腕をぶらぶらさせながら、戻って行った。
アカリは、何でもよく聞く、いい子だ。こんな事態になってまで、妻の言う事に従って、一人で貝を探している。しかし、妻はアカリよりも腕が自由に動かせるだろうし、何より大人だ。アカリを働かせるなんて、一体何を考えているのだ。
貝料理、と聞いて、俺は胃液も何もないすっからかんの腹を押さえた。耐え難い空腹感に、思わず涙が出た。妻はいつも、海外旅行の間に仕入れてきた材料とレシピで、いろいろな料理を作ってくれた。俺とアカリと妻との三人で、食卓を囲んだあの懐かしい日々。あれが、たった何日か前まで享受できていた『当たり前』だったなんて、信じられない。ここには食卓も、料理も、一家団欒もない。何も無い。あるのは絶望と空腹、そして死の危険だけだ。
作品名:人生で一番美味しい料理 作家名:tei