早春賦
そんなことを思ったところで、何がどうなると言うわけではない。なんたって今はもう、全てが昔の話だ。俺と進藤の間にあったものは、今辻と進藤の間にあるものよりも数倍どころか数百倍も淡いもので、形にすらなりはしなかった。
けれど、それでも俺は多分この旋律を聴くたびに、あの声を思い出すんだろう。
夕方のあの教室を、引き寄せようかと思ったあの腕を思い出したりするのだろう。
そうして、いつか誰かの声が取って代わるまで、それは変わる事がないのだろう。
きっと。
あと、もう少しは。
春と聞かねば知らでありしを、聞けばせかるる胸の思いを。
あの歌は、この先確かそう続いたんじゃなかったっけか。
邪魔するつもりはこれっぽっちもねぇが、思い出を懐かしむことぐらい許されるだろう、と思いながら辻を見ると、辻はもうさっき俺に何か聞こうとしたことなぞなかったとでも言うように、飄々と空を見上げていた。黙って遠い歌声を、早春賦の旋律を追っていた。
あれから一年半近くたって漸く色を変えた辻の黒髪と、俺の頭に巻いたタオルを音を立てて翻して行った風は、歌の名前とは裏腹な夏の匂いだった。
だが、遠く聞こえる歌声の所為か、それは微妙にあの春の日と同じ気配がした。
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