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秋月あきら(秋月瑛)
秋月あきら(秋月瑛)
novelistID. 2039
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シャドービハインド

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第2章-夜の侵食-謎の女


 夏はまだ先だというのに、梅雨の合間のその日は、雲ひとつない日差しの強い日だった。
 額に滲んだ汗を体操着の袖で拭いて、戒十は乾いた下唇を舐めた。
「暑いな」
 そう呟きながら、戒十は床に落ちているボールを拾おうと背を丸めた。
 視界が揺れる。
 伸ばした自分の手とボールが2重に見えた。
 次の瞬間、全身に痺れが走り、意識が落ちたのだった。

 ――戒十は保健室のベッドで目を覚ました。
 身体に違和感はなく、すぐに戒十は上体を起こす。
 カーテンで仕切られたベッド。
 保健室は静かだった。
 まるで誰もいないような静寂。
 彼らの仲間となった戒十はすでに、日常から意識せずに気配を消していた。
 この部屋には戒十の気配すらないのだ。
 ベッドから降りた戒十は仕切りのカーテンを開けた。
 そして、戒十は心臓を鷲づかみにされた。
 思いもよらなかった。
 まさかヒトがいるなんて――。
 肉欲を誘う太ももを組んで座る女。
 黒のジャケットを押し上げる豊満な胸が、大きく開かれたシャツの合間から覗いている。その上で、ショートボブの女は妖しく笑っていた。
 戒十は驚きのあまり言葉を忘れていた。
 気配がない女。
 その答えしか頭に浮かばなかった。しかし、それを口にしたのは、戒十ではなく女。
「キャットピープル」
 吐息のような甘い声音だった。
 思わず戒十は息を呑んだ。まだ声は出せない。
 いったい目の前にいる女は誰なのか?
 保健医ではない。
 まだ教員の顔を全員覚えたわけではないが、明らかにそれとは異質なもの。
 そう、女自身も言ったではないか――キャットピープルと。
 女は片時も戒十から眼を離そうとしない。だが、戒十は何度も眼を逸らした。
 ケモノの摂理に戒十は負けた。
 言い知れない不安。
 目の前の女が、自分よりも各が上だと、戒十はひしひしと感じだ。
 このプレッシャーはまるで、あの晩と似ている。
 背筋に寒気が走った咆哮。
 底知れぬ力。
 あの時のリサと似ている。
 ?成れの果て?と戦いを終え、独り森に残されたリサ。その咆哮を戒十は遠くから聴いた。
 ヒトの皮を被ったケモノ。
 手に掻いた汗を握り締め、戒十は出口に向かって逃げた。
 気配はない。
 ただ風が吹いた。
「なぜ逃げるの?」
 女の肉厚な唇から漏れた息が戒十の顔にかかった。
 瞬時に女は戒十の前に回りこんでいたのだ。
 戒十の足から力が抜け、思いもよらず床に尻をついてしまった。
 そして、やっと戒十の喉から絞り出した言葉は――。
「なんだ?」
 それは何を問うたものなのか?
 女は床に両膝を付き、未だ床に尻を置く戒十の胸に軽く触れ、そのまま押し倒して四つん這いで跨った。
「私の名前はカオルコ、貴方とお友達になりたいの」
 お友達の誘いにしては、最初から大胆だ。
 四つん這いの女――カオルコは戒十の上で微笑んでいる。
 ようやく戒十は平常心を取り戻そうとしていた。
「僕はお断りだ」
 その口調は冷たく固い。クラスメートに接するのと同じだ。
 カオルコの口元が静かに動く。
「なら死になさい」
 鋭く伸びた爪が戒十の喉を掻っ捌く寸前、カギを掛かったドアが音をガタガタと音を立てた。
 気が付くとカオルコは消えていた。
 開いた窓から吹き込む風でカーテンが揺れていた。
 戒十は冷静を装いながら立ち上がり、ドアのカギを開けた。
 開いたドアの向こうからこっちに倒れこんだ少女が声を上げる。
「わっ!?」
 倒れ掛かってくる少女を抱きかかえた戒十。
 すぐ間近で戒十の瞳を覗き込んだ少女は、慌てて戒十の身体から離れて顔を少し赤くした。
「ごめんなさい!」
 頭を下げる少女を背にして立ち去ろうとする戒十。その背中に少女が声をかける。
「もう大丈夫なの三倉くん?」
「別に……」
 意識が霞んだ。
 床に手を付く戒十。
 慌てて駆け寄って来た少女の手を振り払おうとするが、床に手が張り付いたように動かない。
 身体が重い。
 この感覚はまるで……。
 戒十の身体の内でなにかが変わろうとしている。
 ヒトからキャットピープルに変異する途中も、これと同じよう感覚が戒十を襲った。
 あの朝と同じ感覚。
 いや、それよりも酷い。
「三倉くん大丈夫なの?」
 声が遠くに聞こえる。
「三倉くん、ここで待ってるんだよ、すぐに先生呼んでくるから」
「……呼ばなくていい」
「呼ばなくていいって……」
 戸惑った表情をしながら少女に戒十は念を押す。
「大丈夫だから、水城さん」
 その言葉のどこに反応したのか、水城純は少しはにかんだ。
「わたしの名前覚えててくれたんだ」
 そんなくだらないことで笑ったのかと戒十は思った。
 水城純は戒十のクラスメートだ。特に仲が良いわけでもなく、交わしたことのある会話と言えば、事務的な会話くらいものだ。
 戒十は立ち上がろうとした。だが、身体がまだ言うことを聞かない。それどころか身体が重くなる一方だ。
「やっぱり先生呼ぼうか?」
「大丈夫だから」
 そう言って戒十は無理にでも立とうとした。
 しかし、脚が崩れて立てない。
 結局、純の肩を借りて立つのが精一杯だった。
 今になって、なぜ、という気持ちが戒十の中で沸いた。
 自分の身体に降りかかった不調や謎の女カオルコに気を取られ、純がなぜここにいて、なぜ自分は純に肩を借りているのか、そこに考えが及んでいなかった。
 それは珍しいことだった。
「どうして水城さんがここに?」
 戒十から話題を切り出した。
「……それは……三倉くんが倒れたって聞いて心配で……放課後になっても教室に戻って来ないからもっと心配になって……」
「もう放課後なのか……」
 倒れたのは確か4時間目の体育だった。ずいぶんと意識が落ちたままだったらしい。
「三倉くんの家まで送ろうか?」
「別にいいよ、水城さんが遠回りになるだろ」
「ううん、実は三倉くんと同じマンションに住んでるんだ。高校生になって越してきたばかりなの」
 戒十は声には出さなかったが、少し驚いた表情をした。
 興味もなかったし、同じマンションに住んでいるなんて知るはずもなかった。
 独りでは立つこともままならない戒十は、この場にずっといるわけにも行かず、純の手を借りて帰宅するほかなかった。
 女の子の肩を借りて歩くなんて、戒十にしてみれば恥辱に近いものがあったが、それでもワガママを言っていられる状況ではない。
 生徒の帰宅ラッシュはすでに過ぎ、校内で他の生徒に出くわすことは少なかった。
 二人が校門を出てすぐ、壁に寄りかかっていた少女が声を掛けてきた。
「授業中に倒れたんだって、カイト?」
 他の学校の制服を着た少女――リサだった。
 リサは戒十に肩を貸している純に眼を配ったが、話かけることはせずに戒十の前に立った。
「心配して来てみたら、女の子とイチャイチャしちゃって、もしかしてお邪魔だったぁ?」
 それは少し意地の悪い言い方だった。
「うるさい、そんなんじゃない」
 言い返した戒十とリサを純は交互に見ながら、二人の関係を模索しているようだった。
 そして純は、
「もしかして三倉くんの彼女? 可愛い人だね」