シャドービハインド
戒十の手首が砕けた。その瞬間、持っていたケースが手を離れ、宙を回転して飛んだ。
ケースは屋上を飛び越えようとしていた。このままでは地面に落ちてしまう。
リサはケースに飛びつこうとしたのだが、急に足首を掴まれ、そのまま地面に叩きつけられてしまった。
カオルコはリサを地面に叩きつけながら、ケースが緩やかに落ちて行くのを嗤って見ていた。
「嗚呼、堕ちて行くわ」
もう薬には興味がないのか?
ケースが地面に落下して壊れる音が耳に届いた。
一瞬だけ戒十は迷った。ケースをすぐさま取りに行くか――だが、戒十はリサの足首を掴んだままのカオルコに飛び掛った。
戒十の手に握られた光るナイフ。それは戒十がシンから貰った物だった。
ナイフの刃は空を斬った。
嘲り笑うカオルコ。
だが、戒十は背中手にもう1本隠し持っていた。シンのコートに入っていた脇差だ。
脇差の刃先はカオルコの心臓を狙っていた。
その刃先は肉を突く寸前で止められた。
素手で刃を握ったカオルコの手から鮮やかな血が滲む。
「惜しかったわね」
嗤いながらカオルコは膝蹴りを戒十の腹に入れ、さらに弱った戒十の腕を捻り上げて骨を砕いた。
そして、あの惨劇を再現した。
カオルコは戒十の腕を肩からもぎ取り、その腕で後ろから迫っていたリサの顔面を殴打したのだ。
戒十は悶絶しながら床の上を這った。
さらにカオルコは床でもがく戒十の膝を踏み付け砕いた。
戒十は奇声としか思えない叫び声であげて意識が飛びそうになった。
躰の底が煮えたぎるように熱いことに戒十は気づいた。
戒十は感情を抑え付けた。ここで感情を暴走させたら、また自分は?ケモノ?になってしまう。それでカオルコに対抗できるかもしれない。けれど、理性を失えばリサまで傷つけてしまう。
カオルコは戒十に止めを刺そうとしていた。
リサは無我夢中でカオルコに飛び掛り躰に抱き、鋭い牙を剥いてカオルコの首を噛み切った。
真っ赤な血がリサの顔を穢す。
狂気がカオルコの瞳を彩った瞬間、リサは腹を裂かれていた。
カオルコの腕がリサの躰を貫通している。
それは資材置き場の闘いで、リサがカオルコの腹を貫いたときと逆の構図。
腕を抜かれたリサは背中から床に倒れた。
すぐにカオルコはリサに馬乗りになって艶笑した。
「はじめてお姉さまに勝ったわ。でも、思ったよりも嬉しくないものね」
長く伸びた爪を振りかざし、カオルコは最期の一撃を――。
「っ!?」
カオルコは眼を見開いた。自分の首を掻っ切った何者かの牙。
戒十はまだ動けずに苦しみもがいている。
では誰だ?
カオルコはその者の首をへし折って振り払った。
床に音を立てて落ちたのは?成れの果て?であった。
首を折られた?成れの果て?は声にならない空気を吐きながら、ただ天を見つめていた。そして、床に転がっている刀。
戒十はなんとかして立ち上がろうとした。いや、這ってでもカオルコを止めようとした。
しかし、遅かった。
カオルコの手には抉られた顔が握られていた。
「これを食べればいいのかしら?」
血を滴らせる顔はまるで熟れた果実のようだった。それを貪り食うカオルコ。
口だけでなく、顔中を真っ赤に染めながら、カオルコはそれを喰らった。
腹に穴を開けられ、片胸を抉られたリサは倒れたまま動かない。
戒十に黒い絶望が圧し掛かる。
もはやカオルコを止めるモノはなにもない。
「きゃははははは、とても素晴らしいわ。これは〈夜の王〉を喰らったときよりも、さらに甘美で豊潤。躰が壊れてしまいそうなほど力が漲っギィギギギギィィ」
様子が可笑しい。
毒薬でも飲まされたかのように踊り狂うカオルコ。
カオルコの躰が大きく跳ねた。
その一部始終を戒十は見ていた。
カオルコがカオルコでなくなろうとしている。その躰は別の女の躰に変わっていく。
ショートボブだった髪の毛が地面についてもさらに伸び続け、色を失った髪の毛は月光を吸収したかのように白銀に染まっていく。
リサは血を吐きながらこう漏らした。
「……クイーン」
そこにはもうカオルコはいなかった。いたのは白銀の髪を持つ夜の女王。
クイーンは至福の笑みを浮かべて世界を見渡した。
「嗚呼、幾星霜の刻を過ごし、この瞬間を待ちわびたことか。嗚呼、なんと夜の美しいことか!」
いったい何が起こったというのだ?
クイーンは床に倒れるリサを見下した。
「よくも妾を閉じ込めてくれていたな。礼はたっぷりとさせてもらうぞ、うふふふふっ」
もうリサは言葉を発する力も残っていないのか、遠い眼差しでクイーンを見つめているだけだった。
「妾が復活したからには、この世にもう朝は来ぬ。さて、手始めにうぬに復讐でもするかの」
クイーンはリサに向けていた目を戒十にやった。
「あれを屠るか。うぬを即座に殺してしまうより、仲間を目の前で殺されるほうが辛かろう」
クイーンの躰に変化が起きる。躰が膨れ上がるその様は、それ以外にない。
白い毛がクイーンの全身を覆い、四足で立ったその姿は白銀の魔獣。
魔獣となってもクイーンは理性を失わなかった。それどころか人語を話した。
「さて、小僧の四肢を引き千切ってやろう」
しなやかな足取りでクイーンは戒十に近づいた。
膝を砕かれている戒十は、片腕の力だけで床を這った。その背後に、ゆっくりとした足取りで、相手が怯えることを楽しむかのように、徐々に徐々にクイーンが近づいてくる。
「逃げよ、逃げよ、思う存分逃げるが良い」
戒十は段差のある端まで追い詰められた。
奇跡など起きはしない。それを確信して戒十はゆっくりと眼を瞑った。
死は戒十のすぐそこまで迫っていた。
「ギャァッ!」
悲鳴があがった。
戒十の足元に堕ちた血の雫。
その先には刀の先端が伸びていた。
クイーンの心臓を背から貫いた刀――それを握っていたのはリサ。
リサは巨大な魔獣の背に乗り、最後の力を振り絞って刀を握っていた。
「妾を滅するというのか!!」
叫びながらクイーンは暴れ、背中のリサを振り下ろそうとした。
しかし、暴れれば暴れるほど、研ぎ澄まされた刀は肉を斬る。
白銀の毛が黒く染まっていく。
心臓を掻き混ざられるように斬られ、悶絶しながらクイーンは屋上から落ちた。
リサは刀をしっかりと握ったまま、死んだように身動きひとつせず、クイーンと共に奈落の底へ。
地響きと断末魔が天まで昇った。
嗚呼、宙[ソラ]には変わらず満月が輝いている。
戒十は眼を瞑ったまま動かなかった。
瞼の裏に広がる世界は闇。
作品名:シャドービハインド 作家名:秋月あきら(秋月瑛)