シャドービハインド
第5章-夜のおわり-ケモノの血再び
リサは額の汗を拭うフリをした。
「ふぅ、やっとカイトを見つけられたー」
コンクリの壁で密閉された巨大な部屋。その真ん中に寂しく椅子が置かれていた。全身を拘束され座っているのは戒十だ。
項垂れている戒十。意識を失っているのかもしれない。
辺りを見回したシンが床にあるモノを発見した。
「血痕だな」
詳しく調べるまでもなく、臭いででわかる。
掃除はされているが、それでも引き伸ばしたような朱い汚れが残っている。
リサたちはまだその血痕が、カオルコのものであることを知らない。
シンは戒十の拘束を解こうとした。ここまでの道のりは長かった。
数時間前のこと、約束の場所にカオルコは姿を見せなかった。
その場所にいたのは大勢の敵。戦いの中で、リサはその連絡を三野瀬から受けた。戒十が攫われたと――。
すぐにリサとシンは敵を殲滅させ、マンションに戻り事の次第を訊いたあと、三野瀬に純を預け、カオルコが残したメモに書かれた場所に向かった。
そこがここだった。
郊外にある邸宅。門構えも立派で、敷地に進入してから本宅までの距離が。とても恐ろしく長く、敵も大勢待ち構えていた。
敵の包囲網を潜り抜け、やっとここにたどり着いた。
リサもシンもある疑問を思っていた。敵は本気だった。全精力をあげて二人を阻止しようとしていたように思える。では、なぜカオルコがまだ姿を現さないのか?
現すとしたら、この場所だと思っていた。
いや、戒十を救ったあと、脱出の間際に姿を見せるというのか?
ドラマチックな演出であるが、現実的な戦法とは言いがたい。
脱出の間際に待ち構える場合は、不意の進入に侵入者の捕捉が難しく、確実な場所で捕まえるために、出口となる場所で待ち構える。このようなケースが妥当と言えよう。
今回のケースはメモで誘っている点から、侵入者が来ることは未然にわかっている。出口で待ち構える必要などない。人質を奪われたら手間になるだけだ。
敵の意図はどこにあるのか?
リサが不信に思っていると、シンが戒十の拘束をすべて外し終えていた。
それはあまりに不意だった。
戒十がシンに襲い掛かったのだ。
咄嗟に躱したシンだったが、その胸元は服が破られてしまった。あと少し遅ければ肉を抉られていたところだ。
虚ろな戒十の瞳。殺気も感じられない。それでいて目の前の獲物を殺す。まるで感情を持たぬ殺人マシーンだ。
静観しながらシンは静かに呟く。
「厄介だな」
救出するべき者と戦う破目のなるとは――。
リサも不味そうな顔をしている。
「催眠術か、投薬か、洗脳ってとこかなー」
心を失っている戒十は容赦なく襲い掛かってくる。それに対するシンは手出しすることができない。
戒十の動きは恐ろしく早い。おそらくシンを超えているだろう。ここ数日で、戒十の身体能力は飛躍的に伸びた。
だが、シンはすべての攻撃を紙一重で躱している。それを成せる業は経験によるところが大きいが、戒十の攻撃が荒く我武者羅であるところも大きい。
シンと戒十の間にリサが割って入った。
「シン交代!」
すると、戒十は近いリサを狙って攻撃してきた。その動きは機械的。もっとも近い敵を狙うようにプログラムされているようだ。
リサは間一髪のところで攻撃を躱している。シンよりもさらにギリギリだ。だが、その動きに危なげなところはない。むしろ余裕だ。
「はい、シンくんに質問です。洗脳とマインドコントロールの違いはなぁに?」
「洗脳は価値観や記憶の改竄、マインドコントロールは誘導だ」
「じゃ、その方向で攻めるってことで」
なにか良い作戦でも思いついたのか?
逃げの一手に徹していたリサが拳を繰り出した。いや、違う。殴ろうしたのではなく、戒十の腕を掴んだのだ。
リサは流すような動きで戒十を拘束した。そして、心の底からこう叫んだ。
「目を覚ましてカイト!」
さらにリサは続けようとしたが、抵抗した戒十は拘束を逃れ、前にも増して攻撃の手を強めてきた。
リサの意図を掴んだシンも加わり、戒十の近くに駆け寄って、それを行った。
「戒十、純を助けるのではないのか!」
戒十の瞳は虚ろのまま。
効果が見えないことにリサはボソッと呟く。
「……投薬だったら、言葉すら届かないから無意味なわけど」
洗脳とは無理やり?別人に仕立てる?行為であり、そこには過去と現在の自分にギャップが生まれる。
マインドコントロールは誘導であり、自らの意思で行動しているために、過去の自分と意識的に決別していることになる。
つまり、洗脳には過去の自分を取り戻させる方法が有効だが、マインドコントロールは過去の自分を見せることで逆に反発をする。
シンが叫ぶ。
「戒十思い出せ、純をキャットピープルにしていいのか!」
決定的なキーワードがない。
なにか、なにか戒十の心を揺るがすキーワードがあるはずだ。
短い期間であるが、リサとシンは戒十の人生に多大な影響を与えた。けれど、深い関係であったか、どの程度二人は戒十のことを理解しているのか?
けろっとリサはした。
「作戦変更しよっか?」
シンは深く頷いた。
「止むを得ない、骨を折ってでも動きを封じろ!」
「担いで逃げるのシンだからね!」
まだ戒十の状況を正確に掴めていない。わかるのは正気ではないということ。それを直す前の段階として、完全な拘束を実行することにしたのだ。
ついにシンは刀を抜いた。だが、刃を返し、逆刃に握り直した。
シンの一太刀が戒十に打撃を加える。すかさずリサは戒十の顎を蹴り上げた。
地面から足を浮かせた戒十は、そのまま背中から倒れた。
立ち上がろうとする戒十の顔面にリサがさらに一発、拳が入った。
馬乗りになったリサは戒十の首を腕で固定し、小さく小さく耳元で囁く。
「夜、満月、黒猫、血……汝の血を妾に……」
「ぐわぁぁぁぁぁぁっ!」
戒十が叫んだ。心に何らかの動揺が奔ったのは明らかだ。
暴れ出した戒十によってリサの躰が大きく後方に飛ばされた。
リサの囁きをシンは聞き取っていた。だが、理解ができなかった。
「リサ、何をした!」
「何って、別に何もー」
起き上がりながらリサは苦笑いを浮かべた。
床でのた打ち回る戒十。その躰に異変が起きはじめていた。
膨れ上がる躰、伸びる髪の毛、服が破れ全身を覆いはじめた黒い毛並み。
なにが起ころうとしているのか、わからぬはずはない。
巨大な黒い猛獣――あの?ケモノ?が再びリサたちの前に姿を現した。
無機質な部屋は広い。出入り口はただひとつ、2枚が開閉する両開きのドアだ。
「どうするリサ?」
訊きながらシンは刀の刃を返していた。
「作戦変更、自分の身は自分で守るってことで、撤退!」
素早くリサはドアまで移動して、外に出ようとしたのだが――。
「まあね、そりゃそーだよね」
ドアはびくとも開かなかった。
?ケモノ?は部屋中に響き渡る巨大な咆哮をあげ、シンに鋭い牙を剥いて喰らいつこうとする。
反撃しなければ確実に殺られる。
シンの刀が血を吸う。
?ケモノ?の黒い毛が、血を浴びてどす黒く染まる。
だが、傷はない。
作品名:シャドービハインド 作家名:秋月あきら(秋月瑛)