チャネリング@ラヴァーズ
小林は放心したように黙って空を見ていた。佐井野は持ってきた柳行李からイタコ道具を広げると、除霊のために念仏を唱え始めた。その声は静かに空へと流れていた。貴子はバスケットに肘をついて空を見た。吸い込まれそうな青空だった。
その日を境に、小林がひとりで屋上に立つことはなかった。ふたりはそれを確認して、ようやく安心した。それから何週間か経って、貴子は廊下でふたたび小林と会った。小林は以前のような顔のやつれが取れて、すっきりとした表情をしていた。最近はよく眠れているらしい。
「高校受験は失敗したけど、次こそは航空大学へいけるように、これからがんばって勉強していこうと思っているんだ。」
「そうなんだ!がんばって‼」
貴子は小林の手を握ると、その手を大きく上下に振った。そして小林の顔を見てあることを尋ねた。
「……ねえ、小林君。今でも空を見あげるのが好き?」
「え?……もちろん!」
そういうと、小林は笑った。はじけるような笑顔だった。貴子もつられて笑った。去っていく小林の後姿を貴子は見送った。いつの間にか小林は猫背ではなくなっていた。
屋上で、貴子は佐井野に彼が見つけた新たな夢を報告した。佐井野は胸の前で腕を組んで、その話を聞いていた。その話を聞き終わると佐井野は、そうか、とそれだけを呟いた。
屋上は風が強い。空はどこまでも晴れ渡っていた。貴子は髪を掻きあげながら何気なく空を見た。そのとき、空に一筋の雲が引かれているのを見つけた。
「見て、佐井野!飛行機雲だわ!」
「ほんとだべ。」
佐井野も貴子が指差したほうの空を見上げた。ふたりの遥か頭上を、飛行機雲はどんどんと伸びていった。
「飛行機雲は英語で、コントレイルって言うんだべ。」
「ふうん。」
髪を手で押さえながら、貴子は飛行機雲が空の彼方へ伸びていくのを見送った。
「……あの幽霊、ちゃんと成仏したかしら。」
貴子はぽつりと呟いた。佐井野はただ黙ったままだった。二人は四月の青空を渡っていく、一筋の飛行機雲をしばらく眺めていた。
それから数週間、貴子は佐井野瓦と会わなかった。佐井野の方からも連絡はなかった。貴子はようやく平和な学園生活を楽しんだ。
休み時間にたまたま通りかかった廊下の窓から、貴子は特進クラスの教室をこっそりと覗いた。いつ見ても、佐井野は机に向かって次の授業の予習をしていた。触らぬ神に崇りなし、と小さな声で呟くと、すぐに廊下を通り過ぎた。それは貴子の人生のモットーでもあった。
ある日いつものように授業が終わり、貴子が帰り支度をしていると、
「おい。」
と突然、誰かに呼ばれて髪の毛を引っ張られた。それは恐れていたある人物の声だった。
「そ、そ、その青森弁なまりは!」
貴子は恐る恐る振り向いた。そこには予想通り、佐井野瓦が立っていた。
「青森弁じゃない。下北半島の下北弁だべ。」
佐井野がむっとした顔で言った。貴子は両ほほを押さえて、
「ぎゃー‼悪霊退散!」
と、ムンクの絵のように叫んだ。そんな貴子の姿を、佐井野は目を細めて冷たく眺めた。
「……佐井野さん、私に用があるということは、もしかして、レイのあれですか?」
今度はわざとらしい敬語を使ってみた。佐井野はゆっくりとうなずいた。
「……おめの予想通り、レイのあれだべ。」
クラス中の視線が集まる中を、貴子は佐井野に腕をつかまれたまま廊下の端まで連れて行かれた。特に女子からは凍るような冷たい視線を浴びていたが、先の心霊体験以降、貴子はすでに怖いものなしになっていた。
ひさしぶりに会った佐井野は、何故か眼鏡をかけていた。目立たない黒い縁の眼鏡だったが、佐井野がかけるとそんな地味な眼鏡でも似合っていた。
「あんた、その眼鏡どうしたの?」
「ちょっとな。」
佐井野はそれだけ言った。そして、
「またしても、問題が発生したべ。」
廊下を並んで歩きながら、小声で貴子に言った。
「ひえ~‼今度は何?」
「とりあえず、わいについてくるべ。」
佐井野に引っ張られるように、貴子は学年の違う上の階へ連れられていった。佐井野は廊下の柱に身を隠して、ある教室を覗き込んだ。
「あの女を見てみろ。」
佐井野が指差した先を見ると、上級生の女子生徒が椅子に座って文庫本を読んでいた。
「あの上級生?」
「んだ。あの2年生の女子だ。」
佐井野が指差した相手は、ややほっそりした身体つきの華奢な女子だった。肩まで黒髪を伸ばした、おとなしそうな女生徒だった。貴子が見る限り、それ以外で特に変わったところは見られなかった。
「今、わいにしつこく障っている霊は、あの女に引き寄せられてここに来たらしい。」
「どんな霊か、もうわかっているの?」
「ああ、授業中に交霊してみた。死んでからそれほど日がたっていない女の霊がついているはずだ。」
「今回の霊は、もうそこまでわかっているの?」
「ああ、取り付くことになった詳しい事情はわからんが、そういうのはなんとなくわかったんだべ。ともかく、このままでは気になって授業に集中できん。」
その時、また別の男子生徒が、二人の隠れているほうに向かって歩いてきた。その男子生徒の顔を見るなり、貴子はぎょっとした顔で目を丸くした。
「あ!」
「どうしたべ?」
佐井野が怪訝な顔で貴子を見た。
「ごめん、佐井野、ちょ、ちょっと隠れさせて!」
貴子は自分の姿がその男子生徒から見えないように、佐井野の後ろに隠れた。その時、貴子の両胸が佐井野の背中に偶然当たった。それに気づいてあわてた佐井野は、片手を挙げて眼鏡をかけなおし、動揺をさりげなく隠すような仕草をした。男子生徒はそんな二人を気にとめる様子もなく、遠くに去って行った。それを確認してから、貴子はようやく佐井野の背中から身体を離した。
「よかった、気づかれてない!」
「一体、なんだべ?おめの知り合いか?」
佐井野が訝しげに貴子の顔を見た。
「なんでもないわよ、気にしないで!で、これからどうするの?」
貴子は、この話題をどうにか早く終わらせたい、というふうに佐井野に今後の行動を促した。二人はふたたび教室で本を読んでいる女子生徒の観察を開始することにした。
「とにかく今は、あの女の様子を観察するべ。」
その女子生徒は読んでいた本から顔を上げると立ち上がり、佐井野と貴子がいる廊下に向かって歩き始めた。
「隠れるべ!」
二人はあわてて廊下の影に隠れた。女子生徒は二人に気づくことなく、目の前を通り過ぎ、階段を降りていった。佐井野と貴子は柱から離れると、その女子生徒のあとをつけ始めた。
「どこに行くのかしら?」
その女子生徒はどうやら学校の食堂が入っている建物に向かっているようだった。学食の入り口まで来ると、彼女はそこに置いてあるパンの自動販売機の前に立った。そしてしばらくその場で身体を動かさず立ちつくしていた。
「あれ、彼女、パン買わないのかしら?」
するとその女子生徒は、二人の目の前で急にその場に倒れた。
「あ!」
佐井野と貴子は慌ててその女生徒のもとに駆け寄った。女子生徒はどうやら気を失っているようだった。胸ポケットには〝鈴木〟という彼女の名字が刺繍されていた。二人は顔を見合わせた。
「どうしよう?」
「とりあえず、今はこの人を保健室へ運ぶべ。」
作品名:チャネリング@ラヴァーズ 作家名:楽恵