風の魔術詩オーウェルン
「このままこの王国に留まり、マルゴス族の奴隷となるか……。お前は王宮の侍女だけあって、酷い扱いは受けないだろう。見た目もそれほど悪くないからな。」
アスティの顎を摘んで顔を近づけた。
「……あんたはこれからどうするの?」
「ここからずいぶんと遠くにある都、エスメルダ公国まで行く。」
「今さらここには居られないわ。私も一緒に連れてってよ。」
「連れていって、何の役に立つというのだ。」
「王妃様のヴェールのある場所を教えてあげたじゃない!」
胸に掴みかかった。
「あ!」
その時、彼女は空に何かを発見した。
「虹だわ!」
空に大きな虹がかかっていた。瞳を輝かせて虹を指差した。一方のオーウェルンは、相変わらずの無表情のままで、その虹を見ていた。
「……いいだろう。あの虹はどうやらお前のこの旅を祝福するために現れたようだ。」
アスティはこうして、この不思議な魔術師の旅の道連れとなった。
二人は砂漠を進んだ。岩陰にフェルトの丸いテントを張ると、この日はその場所で休むことになった。
「見てないで、おまえも手伝うのだ。」
「……魔法でやらないの?」
「自力でできることは、わざわざ魔法でやる必要は無い。」
砂漠の所々に生えている木々の枝を集めると、小さな火を起こし、夕食を作った。アスティはこの旅人をよく知ろうと思い、彼の生い立ちや彼の家族について尋ねた。だが彼は自分の出自や経歴を話そうとはしなかった。彼女はこの魔術師の少年の美しい声を聞きたがっていたので、それを残念に思った。
やがて夜は更けて行った。だが、なかなか眠りにつけなかった。寝返りを打つと、すでに横になっている少年の横顔を見た。起き上がると彼の側までいき、その傍らに座った。
「……なんだ。」
オーウェルンは目を閉じたまま、夜遅くにこの少女が自分に近づいてきた理由を尋ねた。
「ねえ、よかったら何か物語を聞かせてよ。」
「……物語だと?」
「そうよ、あんた魔術師なら色んな物語を知っているでしょ?私は詩や物語が好きなの。」
目を開け灰色の瞳でちらりとアスティを見て、子どもなんだな、と呟いた。マントの裾から長い両手を伸ばし、頭の後ろで組んだ。
「そうだな。ならば、サマラに来る前に立ち寄った、ダマロフの都に昔から伝わる話を聞かせてやろう。」
やった!と叫ぶと、彼の隣にごろんと横になった。彼はダマロフの都に伝わる伝説を静かに話し始めた。心地よい美声だった。アスティはその世界にすっかり引き込まれて言った。
彼女が眠りにつくまで、彼はその伝説を話し続けた。アスティが夢の世界に入り込み始めた後も、話を続けた。
「…そして、砂漠の丘で娘はある少年に出会う。その少年は娘の運命に深く関わる者だ。」
最後の言葉を呟いたが、彼女はすでに眠りに落ちていた。首を回しその顔を覗き込んだ。
「…セナが生きていれば、これくらいだな。」
アスティの寝顔を見た彼は、ふいに幼い頃に死んだ自分の妹を思い出した。ジブナル王家によって一族と共に殺された小さな妹。胸の中に、拭い去ることのできない悲しみと鋭い痛みが襲った。だが目を閉じると、そんな感傷もすぐに捨て去った。
夜が明けると、二人はすぐさま歩き始めた。彼女は砂漠の乾いた空を見上げ深呼吸した。生まれて初めての自由な空気を楽しんだ。
砂漠を歩き馴れていないアスティは、歩き方がまだぎこちなかった。
「やれやれ、先が思いやられるな。」
二人は日中の陽射しの強い時間帯のほとんどを岩陰で過ごし、朝と夕方の比較的涼しい時間帯を歩くことになっていた。
数日経つと、アスティは足の裏に鋭い痛みを覚えた。
「歩き方がいけないのだ。」
「どうすればいいの?」
「私の歩き方を見ればいい。自然に身体が覚えてくる。」
見よう見まねで歩き方を真似し始めた。痛みはとれなかったが、ずいぶんと楽になった。
眩い夕陽が、燃えるように空が広がっていた。アスティは砂漠の向こう側から、小さな動物がこちらに向かってくるのに気づいた。
「仔犬だわ!」
仔犬は彼らの足元にやってきた。抱き上げて顔を覗き込んだ。アスティの腕から逃れると、今度はどこかに向かって駆け始めた。
「……何かしら?」
「お前をどこかに連れて行きたいらしいな。」
二人は仔犬の後を追いかけ始めた。仔犬が足を止めた所を見ると、岩陰に人がひとり倒れていた。少年のようだった。
「見て!誰かが倒れてるわ!」
すぐさま少年のもとに駆け寄り、抱き起こした。気を失っているらしい。彼が背負っていた小さな水筒を見て、オーウェルンは美しく生えそろった眉をしかめた。水筒袋から水を掬いながら、少年の唇を湿らせた。
しばらくすると、少年が目を開いた。少年は黒髪だが、その瞳は、深い青の色だった。
「気がついた?」
「……あなた達は?」
「あなたと同じく旅をしている人間よ。」
少年は水筒を受取ると、再びゆっくりと水を飲んだ。少年の荷物は水袋の入った背負い鞄と一振りの剣だけだった。
「……こんな小さな水筒で砂漠を横断しようとするなど、死ぬつもりだったのか?」
感情をあまり表に出さないオーウェルンが、珍しく呆れた顔をした。少年は黙ったままだった。
「名前は?」
「……クォーツ。」
彼は青い瞳を閉じ、小さな声で答えた。人見知りする性格らしい。
アスティは短い髪のまま、素顔をさらけ出していた。王宮の奴隷ではなくなった今、日除けは外套だけで十分だった。
アスティは仔犬の小さな頭をなでた。
「かわいい子犬ね。」
「それは犬ではない、狼だ。」
「おおかみ‽」
二人とも驚いて足元の狼を見た。じゃれつくように辺りを元気よく走り回っていた。
「勝手に付いて来たんだ。」
「この子の名前は?」
少年はしばらく口ごもったあとで、
「……ムーン。」と答えた。
「ムーン。素敵な名前ね。それにこの子、とっても凛々しいわ。」
膝を曲げて、もう一度頭を撫でた。オーウェルンはその様子を黙って見つめていた。
日が暮れた。やがて砂漠に月が出た。オーウェルンは岩陰にテントを張った。
青灰色の狼は月の光を受けるとよりいっそう青く輝いた。
「その狼は、ただの狼ではない。その狼はおそらく草原の〝蒼い狼〝だ。」
「草原の蒼い狼?」
「ああ。草原の民の真の王者を守るという聖なる獣だ。マルゴス族に伝わる伝説だ。」
マルゴス族、と小さく呟くと、アスティは先日サマラの都を焼き尽くした残虐な侵略者を思い出した。美しかったサマラの都の空を焦がして、真っ赤に燃え盛る炎を、まだはっきりと思い出すことができる。
「草原の狼が、どうしてこんな砂漠にいたのかしら?」
クォーツは黙って仔狼ムーンの頭を撫でていた。オーウェルンはちらりとクォーツを見た。
「君はどうして旅に出たの?」
アスティはクォーツの顔をのぞきこみ、たずねた。彼は青い瞳をくるりと回した。
「……海が見たいんだ。」
「海ですって?どれだけ遠いと思っているの?」
「……知ってるよ。」
「海はとても遠い場所にあるのよ。あなたが生きている間に、行けるかどうかもわからないわ。」
「でも、僕は自分の目で見てみたいんだ。」
と、今度ははっきりとした口調で呟いた。深い青の瞳の中に、強い光が宿っていた。
若い三人の旅人は、砂漠の旅を続けた。
「水がなくなってきたわ。」
作品名:風の魔術詩オーウェルン 作家名:楽恵