風の魔術詩オーウェルン
草原の騎馬軍隊マルゴスがサマラの都をとり囲んでいた。突然に急襲してきたらしい。地響きのような音が聞こえてくる。城壁に向かって大砲が打ち込まれているらしい。
城壁を乗り越えた数百人の兵士からの急襲で、都の城壁の中央門はすぐに破られた。城壁の内側へマルゴス軍の騎馬兵士が怒涛のように押し寄せた。王宮の窓からも、その姿がすぐに確認できた。
「王后陛下は!」
彼女は自分の身の心配よりも、年老いた女主人の事で胸が張り裂けそうだった。
「陛下はすでに宮殿の外へ逃げられた!」
そう、よかった、と一息つき、後宮を見回した。まだ宮女たちが残っていた。普段、奴隷のアスティが王宮から逃げ出すことは不可能である。だが今は違う。逃げ出すには絶好のチャンスである。しかし後宮の女達を見捨てて自分だけ逃げ出す気にはなれなかった。
数時間後、ついに王宮にマルゴス軍が達した。馬を下りた数百人の兵士たちが一斉に突入してきた。これまで平静を保とうとして来た宮女達の悲鳴が、あちこちで聞こえ始めていた。彼女は宮殿の兵をつかまえると、
「私にも剣を一振り下さい。腕には少々、覚えがあります!」と言った。
兵士は頷くと、剣を渡した。彼女は剣の刃に映る自分を見た。
―ここで、死ぬのかも知れない。
甲冑の胸当てを当てると、頭上で纏めていた長い髪の束を握り締め、勢いよく切った。女の姿のままでいるよりも、男装の方がまだ時間を稼げるはずだ。すでに死ぬ覚悟はできていた。
そして夢中で戦い続けているうちに、いつの間にか壁を背にマルゴス兵に囲まれてしまった。背中が汗でぐっしょりと濡れている。
―もう駄目だわ。
彼女はついに死を覚悟し、目を閉じた。
「娘、こっちだ!」
誰かに袖を引っ張られた。
アスティの袖を引いたのは昨夜のマント姿の男だった。男はマントの中から一粒の真珠を取り出すと、床に放り投げた。それは白い子猫になった。彼は子猫を拾い上げると、兵士の前に投げた。すると子猫はみるみる大きくなり、黄金色のライオンとなった。
「こ、子猫がライオンになった!」
アスティは目を丸くして驚いた。彼女の手を引いて、男は宮殿の廊下を駆け始めた。
やがて兵の少ない部屋に連れてこられた。男は確かに昨夜、王宮の屋根で出会った黒いマントの男だった。マントの奥から、透明に近い灰色の瞳がのぞいていた。
何故この場所に昨夜の男がいて自分を助けたのだろうか。半ば呆然としたままだった。
「お前に尋ねたいことがある。極楽鳥の羽根のヴェールの事だ。」
「……あれは、王后陛下の間にあるわ。でも宮殿の中はすでにマルゴス兵でいっぱいよ。」
「案内してくれれば、それでよい。そうすればお前の命を助けてやるぞ。こんな処で死にたくないだろ?」
アスティは驚いて男の顔を見た。灰色の瞳が自分の本当の心を見透かすように、見下ろしていた。
「さあ、早く案内しろ。」
回廊のあちこちに、火の手が上がっているのが見えた。奥まで行くと、大きな扉の前に着いた。そこが王妃の部屋だった。しかし扉は開かなかった。
男は扉に手を当てた。すると扉だけが音も無く宙に浮き、床に倒れた。部屋の奥にある机の上に、薄絹のヴェールが置かれていた。
男はその薄絹を手に取った。薄いヴェールは、様々な色の糸で織られていた。
その時、扉の向こう側から、ドーンと、大きな衝撃音がした。どうやらマルゴスの兵士達がドアを打ち破ろうとしているらしい。彼はアスティの手を引いて、窓際に立った。
「持っていろ。」
男の言うとおり羽根のヴェールを受け取った。部屋に数人のマルゴス兵士が突入してくると、二人を見つけ襲い掛かってきた。その時、先ほどのライオンが兵を背後から襲った。兵が倒れると、ライオンは子猫になった。男は子猫を拾い上げた。子猫は男の手のひらで再び一粒の真珠となった。
彼はマントを翻すと、右手の人差し指を天に向かってまっすぐ伸ばした。
「 閉じ込められた風よ
今 その吹くべき場所の行方を求めん」
男が詩を短く詠うと、宮殿の中を突然風が吹き始めた。後から部屋にやって来たマルゴスの兵士達が、じりじりと後退していった。
彼らを押しのけて、豪奢な鎧を着た男が前に立った。身なりからすると、将軍であろう。彼は、男の正体に気がついた。
「詩を詠う魔術師だと…。お前はまさか…。」
目を見開いてマントの男を見た。
「魔術詩人ウェルル族の唯一の生き残り、オーウェルンだな!」
―オーウェルン。
アスティは隣りに立っている男を見た。目の前の男は、先日見た立看板にお尋ね者とされていた魔術師だったのだ。
オーウェルンと呼ばれた男は、灰色の瞳を細めて、ふふ、と不敵な笑みを浮かべた。
「いかにも。だが気がつくのが遅かったな。」
彼は再び人差し指を兵士達の頭上に向けて伸ばした。そして魔術詩を暗誦し始めた。
「 風を呼び込め 力よ 神の名のもとに 嵐 大きな力よ 」
部屋の中に吹き荒れる風はさらに強くなり、兵士達が回りに落ちていた盾や宮殿の調度品とともに吹き飛ばされた。信じられない光景に、アスティは自分の目を疑った。
男はアスティを連れてバルコニーへ出た。
陽の光のもとで、アスティは初めてそのその顔をはっきりと見た。神の力を自由に操るような魔術師だが、それは予想していたよりずいぶんと若い少年だった。
「飛ぶぞ。」
「え?」
彼女の頭からマントを被せた。マントの中で、その身体はみるみるうちに小さくなり、白い小鳥となった。彼は小鳥を肩に乗せた。
「しっかりとつかまっていろよ。」
透き通るような灰色の目を深く閉じた。
「 今まさに 我は 空へと行かん 風よ 我が友 力よ 我に吹け 」
詩を詠うと、再び目を開けた。灰色の瞳はその時、輝く銀色に変化していた。そして風と共に宙に浮いた。長いマントを靡かせ、彼女を肩に乗せたまま空を滑るに移動していった。
小鳥に姿を変えられたアスティは、おそるおそる都を見下ろした。町は逃げ惑う人々で混乱状態になっていた。
魔術師はあっという間に城壁を飛び越えていた。眼下はすでに黄色い砂漠が広がるのみである。彼は肩に乗せていた小鳥を指に乗せると、息を吹きかけ、再び元の人間の姿に戻した。アスティは都の方角を見つめた。
「街が燃えているわ。」
「マルガス族は先を急いでいる。これほど大きな都なら壊滅させられまい。後はそれぞれの人間の運しだいだ。」
確かにマルガス軍の目的はこの都ではなかった。補給基地にする必要もあった。その場合、住民を皆殺しにはしないはずだった。
都の上空高くまで、炎と焦げる煙に満ちていた。美しかったオアシスの都は、あっという間に廃墟と化していた。アスティは俯いたまま頬に一筋の涙を流した。
「悲しいか。」
横顔を見ていたマントの男は、空を見あげた。
「 風は友を呼ぶ 親しき友の名は
雨を呼ぶ雲 恵を隠す灰色の雲 」
黒い雨雲がどこからともなく現れ、都の空に広がり雨が降り始めた。雨は止むことなく降り続き、火の勢いを弱らせ始めていた。
「……あなたが降らせたの?」
彼は黙っていた。炎の勢いは止み始めた。その後を、黒い煙がいくつもあがっている。
「……さて、おまえはどうする?」
「え?」
作品名:風の魔術詩オーウェルン 作家名:楽恵