風の魔術詩オーウェルン
時刻はすでに昼過ぎであったが、太陽はまだ高い位置にあった。日干し煉瓦で築かれた城壁の影も、まだそれほど伸びていない。
オアシスの都サマラは、砂と侵略者から都を守るために、周囲を高い城壁で囲んでいた。城壁の外は、見渡す限りの砂漠である。
王宮の女官アスティは、王妃の使いとして久しぶりに市場へやって来ていた。個人的なプレゼントを職人に依頼するためである。女官といっても、彼女はもともと奴隷であった。だが生来の賢さを認められ、女官と同じ仕事に就いていた。
都は豊かなオアシスに恵まれ、交通と交易の要衝として栄えていた。市場の中央で人だかりに気がつき、アスティは足を止めた。
それは都の役所が立てた看板だった。アスティは王宮奴隷であったため、文字を教わっており、その場に掲げられていた板に書かれた文字が読めた。どうやら、お尋ね者を見かけた者に報奨を与えるという告知らしい。
『 魔術詩人オーウェルンを捕らえた者に、金貨２万ディラを与える。かの者は、ジブナル王家への反逆者である魔術詩を操る魔術詩人ウェルル族の生き残りである。各地の都でその土地の宝物を集め、逃げている。かの者は透明に近い灰色の瞳を持っている。その瞳は角度と光によって時に銀色に変化する。これらの特徴を持つ怪しげな者を見つけた者は、すぐさま役所に知らせること。知らせた者だけの者にも褒賞金を出す。これはまた、サマラとジブナル王家の友好のためでもある。』
都では、金貨千ディラで家を建てることができる。王宮に仕えているとはいえ奴隷のアスティは金貨でさえ持った事は無い。
賞金を出すというジブナル王家とは、砂漠の国々では知らないものが無いオアシスの大国ジブナルを治める支配者一族であった。
「魔術詩人オーウェルン……。」
アスティは立て看板を読みながら独り言を呟いた。宮廷詩人や都で悪魔祓いを行っている魔術師を知ってはいたが、魔術を操る魔術詩人がどのような人間なのか、彼女には想像もつかなかった。
看板の前に群がる人々から離れると、王宮に向かって歩き始めた。王宮に戻ると後宮に入り、自分の仕事を王妃に報告した。その後はこまごまとした女官の仕事を手伝った。そしていつもの通り、王宮の平穏な一日が終わった。
後宮の女官部屋にあるバルコニーに出ると、アスティは周りを伺った。女官達の多くはすでにそれぞれの寝床で休んでいる。
バルコニーの縁に足を掛けると、すぐさま屋根に登った。そこは彼女だけが知っている秘密の場所だった。風に注意しながら、瓦の隙間に足を掛け登っていく。
町で最も高い場所である。夜風が心地よい。すでに闇夜に沈んだ遠くに、城壁の形がぼんやりと見える。ふいに詩が心に浮かんだ。
「風は月に歌う 月はその声に耳を澄ます
風の中に立てば 聞こえてくる砂粒のため息
砂の乙女の誓い 星ぼしの蜃気楼 」
「いい詩だな。」
突然、誰かに声をかけられ、息が止まるほど驚いた。振り返ると、そこにはマントを着た若者が立っていた。こんな夜更けの王宮の屋根に、自分以外の人間がいるとは思わなかった。思わず屋根から滑り落ちそうだった。
マントの縁取りに金の刺繍が施されている。高級なマントだった。貴族だろうか、と思った。しかしこんな夜遅い時間に、このような場所に貴族が居るはずは無い。
「……あなたは、誰？」
緊張のあまり、思わず屋根瓦の隙間に指を食い込ませた。
「それはおまえが作った詩なのか？」
「そ、そうですけど！」
警戒しながら声の主を見た。低いが、どこか優しい響きの声である。
「……この戦乱の世に、詩を吟ずる人間がまだいたとはな。」
アスティに危害を加える気配はない。
「……いい詩かしら？」
「ああ、悪くない。」
若い男は空を見あげたまま立っていた。
「 銀河を渡る 砂漠の風
透き通る風の声 永遠の眠りに誘い
終わらない甘い春の夜を夢見ている
風は通り過ぎる
運命のなかを通り過ぎる
季節は風の中を通り過ぎる
私独りだけを残して 」
男もまた詩を詠い始めた。その声は彼女が一度も聞いたことの無い素晴らしい美声であった。思わず引き込まれた。サマラの宮廷詩人でさえ、これほど美声の持ち主と出会ったことはなかった。その声は美しいながらも、どこか悲しげな哀愁を帯びていた。アスティは夢の中にいた。いつのまにか別世界へ連び去られたような気分だった。
「素晴らしい詩だわ、こんな詩は聞いたことがないわ。あなたって素敵な詩人ね。」
男が詩を詠み終わると、彼女は弾けるような笑顔をみせた。若いマントの男は黙ったまま、深いフードの奥でかすかな笑みを浮かべただけだった。
アスティの座っている場所からは城壁の外に広がる砂漠が見える。砂漠の上に星が輝いていた。月も出ていたが、星は普段より強い光を放っていた。
「輝く大きな星だわ。」
「だが、あれは悪い星だ。この都にとって。」
それは暗い予言であった。
「吟遊詩人になって旅をするのが私の夢よ。」
アスティは思わず自分の夢を口にした。奴隷の自分には、叶わぬ夢だった。おそらくこの先も、この華麗なる牢獄に閉じ込められ、王族に仕えて一生を終えるのだろう。
マントの男は彼女の額のうえにそっと手を掲げた。すると額の髪を揺らすように、優しい風が吹いた。
「……何をしたの？」
「おまえの夢が叶うように、風のお呪いだ。」
男は静かに笑った。アスティはまた星空を仰いだ。しばらくすると男の気配が無くなっていることに気がつき、慌てて振り返った。男はすでにその場に居なかった。一人きりであり、さすがに宮殿に忍び込みそうな気配でもなかった。まして盗賊でもなさそうだった。
再び星空を眺めた。だがこの都の平和な夢が崩れ去る日が、すぐそこまで来ていた。
城壁の外は、見渡す限り砂漠の世界である。果てることの無い砂の大地を、少年が一人、月光を頼りに歩いていた。月の光が、砂漠の丘をさまざまな造形美に象っている。
孤独な女王のようだ、と思った。少年はまだ旅を始めたばかりである。歩みを止め、この夜の寝床をその場に確保しようとした。
ふいに足元で小さな鳴き声がした。見るとヨチヨチと仔犬が歩いてきた。灰色の毛並みをしている。その小さな体は、月の光を受けて青白く輝いていた。
「お前、お母さん犬とはぐれたのか？」
幼少の頃より両親に大事にされて育った少年は、間近で犬を見たのは数回しかなかった。犬を抱き上げたとき、遠くから地響きが聞こえ始めた。地平の向こうに目を凝らした。
「マルゴス軍だ！」
すぐさま近くにあった大きな岩の中に姿を隠した。彼はすでに十四歳であったが、まだ背丈も低く、小柄な体格であった。じゃれた仔犬が弱い力で彼の手を咬んだ。
「今度はどこの国を攻め落とすのだろう…。」
顔をしかめた。その軍旗をよく知っていた。軍はその近くで宿営するらしく、テントを張り始めた。砂漠の空に夜が深まっていた。
アスティは部屋の外の騒ぎに気がつき、目を覚ました。宮殿は異様な雰囲気に包まれている。すぐさま起き上がると、寝間着姿のまま外をのぞいた。近くを走り回っている女官を捕まえて、騒々しさの理由を尋ねた。
「どうしたの‽何が起こっているの‽」
「マルゴスがこの都に侵攻して来たのよ！」
オアシスの都サマラは、砂と侵略者から都を守るために、周囲を高い城壁で囲んでいた。城壁の外は、見渡す限りの砂漠である。
王宮の女官アスティは、王妃の使いとして久しぶりに市場へやって来ていた。個人的なプレゼントを職人に依頼するためである。女官といっても、彼女はもともと奴隷であった。だが生来の賢さを認められ、女官と同じ仕事に就いていた。
都は豊かなオアシスに恵まれ、交通と交易の要衝として栄えていた。市場の中央で人だかりに気がつき、アスティは足を止めた。
それは都の役所が立てた看板だった。アスティは王宮奴隷であったため、文字を教わっており、その場に掲げられていた板に書かれた文字が読めた。どうやら、お尋ね者を見かけた者に報奨を与えるという告知らしい。
『 魔術詩人オーウェルンを捕らえた者に、金貨２万ディラを与える。かの者は、ジブナル王家への反逆者である魔術詩を操る魔術詩人ウェルル族の生き残りである。各地の都でその土地の宝物を集め、逃げている。かの者は透明に近い灰色の瞳を持っている。その瞳は角度と光によって時に銀色に変化する。これらの特徴を持つ怪しげな者を見つけた者は、すぐさま役所に知らせること。知らせた者だけの者にも褒賞金を出す。これはまた、サマラとジブナル王家の友好のためでもある。』
都では、金貨千ディラで家を建てることができる。王宮に仕えているとはいえ奴隷のアスティは金貨でさえ持った事は無い。
賞金を出すというジブナル王家とは、砂漠の国々では知らないものが無いオアシスの大国ジブナルを治める支配者一族であった。
「魔術詩人オーウェルン……。」
アスティは立て看板を読みながら独り言を呟いた。宮廷詩人や都で悪魔祓いを行っている魔術師を知ってはいたが、魔術を操る魔術詩人がどのような人間なのか、彼女には想像もつかなかった。
看板の前に群がる人々から離れると、王宮に向かって歩き始めた。王宮に戻ると後宮に入り、自分の仕事を王妃に報告した。その後はこまごまとした女官の仕事を手伝った。そしていつもの通り、王宮の平穏な一日が終わった。
後宮の女官部屋にあるバルコニーに出ると、アスティは周りを伺った。女官達の多くはすでにそれぞれの寝床で休んでいる。
バルコニーの縁に足を掛けると、すぐさま屋根に登った。そこは彼女だけが知っている秘密の場所だった。風に注意しながら、瓦の隙間に足を掛け登っていく。
町で最も高い場所である。夜風が心地よい。すでに闇夜に沈んだ遠くに、城壁の形がぼんやりと見える。ふいに詩が心に浮かんだ。
「風は月に歌う 月はその声に耳を澄ます
風の中に立てば 聞こえてくる砂粒のため息
砂の乙女の誓い 星ぼしの蜃気楼 」
「いい詩だな。」
突然、誰かに声をかけられ、息が止まるほど驚いた。振り返ると、そこにはマントを着た若者が立っていた。こんな夜更けの王宮の屋根に、自分以外の人間がいるとは思わなかった。思わず屋根から滑り落ちそうだった。
マントの縁取りに金の刺繍が施されている。高級なマントだった。貴族だろうか、と思った。しかしこんな夜遅い時間に、このような場所に貴族が居るはずは無い。
「……あなたは、誰？」
緊張のあまり、思わず屋根瓦の隙間に指を食い込ませた。
「それはおまえが作った詩なのか？」
「そ、そうですけど！」
警戒しながら声の主を見た。低いが、どこか優しい響きの声である。
「……この戦乱の世に、詩を吟ずる人間がまだいたとはな。」
アスティに危害を加える気配はない。
「……いい詩かしら？」
「ああ、悪くない。」
若い男は空を見あげたまま立っていた。
「 銀河を渡る 砂漠の風
透き通る風の声 永遠の眠りに誘い
終わらない甘い春の夜を夢見ている
風は通り過ぎる
運命のなかを通り過ぎる
季節は風の中を通り過ぎる
私独りだけを残して 」
男もまた詩を詠い始めた。その声は彼女が一度も聞いたことの無い素晴らしい美声であった。思わず引き込まれた。サマラの宮廷詩人でさえ、これほど美声の持ち主と出会ったことはなかった。その声は美しいながらも、どこか悲しげな哀愁を帯びていた。アスティは夢の中にいた。いつのまにか別世界へ連び去られたような気分だった。
「素晴らしい詩だわ、こんな詩は聞いたことがないわ。あなたって素敵な詩人ね。」
男が詩を詠み終わると、彼女は弾けるような笑顔をみせた。若いマントの男は黙ったまま、深いフードの奥でかすかな笑みを浮かべただけだった。
アスティの座っている場所からは城壁の外に広がる砂漠が見える。砂漠の上に星が輝いていた。月も出ていたが、星は普段より強い光を放っていた。
「輝く大きな星だわ。」
「だが、あれは悪い星だ。この都にとって。」
それは暗い予言であった。
「吟遊詩人になって旅をするのが私の夢よ。」
アスティは思わず自分の夢を口にした。奴隷の自分には、叶わぬ夢だった。おそらくこの先も、この華麗なる牢獄に閉じ込められ、王族に仕えて一生を終えるのだろう。
マントの男は彼女の額のうえにそっと手を掲げた。すると額の髪を揺らすように、優しい風が吹いた。
「……何をしたの？」
「おまえの夢が叶うように、風のお呪いだ。」
男は静かに笑った。アスティはまた星空を仰いだ。しばらくすると男の気配が無くなっていることに気がつき、慌てて振り返った。男はすでにその場に居なかった。一人きりであり、さすがに宮殿に忍び込みそうな気配でもなかった。まして盗賊でもなさそうだった。
再び星空を眺めた。だがこの都の平和な夢が崩れ去る日が、すぐそこまで来ていた。
城壁の外は、見渡す限り砂漠の世界である。果てることの無い砂の大地を、少年が一人、月光を頼りに歩いていた。月の光が、砂漠の丘をさまざまな造形美に象っている。
孤独な女王のようだ、と思った。少年はまだ旅を始めたばかりである。歩みを止め、この夜の寝床をその場に確保しようとした。
ふいに足元で小さな鳴き声がした。見るとヨチヨチと仔犬が歩いてきた。灰色の毛並みをしている。その小さな体は、月の光を受けて青白く輝いていた。
「お前、お母さん犬とはぐれたのか？」
幼少の頃より両親に大事にされて育った少年は、間近で犬を見たのは数回しかなかった。犬を抱き上げたとき、遠くから地響きが聞こえ始めた。地平の向こうに目を凝らした。
「マルゴス軍だ！」
すぐさま近くにあった大きな岩の中に姿を隠した。彼はすでに十四歳であったが、まだ背丈も低く、小柄な体格であった。じゃれた仔犬が弱い力で彼の手を咬んだ。
「今度はどこの国を攻め落とすのだろう…。」
顔をしかめた。その軍旗をよく知っていた。軍はその近くで宿営するらしく、テントを張り始めた。砂漠の空に夜が深まっていた。
アスティは部屋の外の騒ぎに気がつき、目を覚ました。宮殿は異様な雰囲気に包まれている。すぐさま起き上がると、寝間着姿のまま外をのぞいた。近くを走り回っている女官を捕まえて、騒々しさの理由を尋ねた。
「どうしたの‽何が起こっているの‽」
「マルゴスがこの都に侵攻して来たのよ！」
作品名：風の魔術詩オーウェルン 作家名：楽恵