風の魔術詩オーウェルン
「私はジブナル王家の第一皇女、アスナイ・ジブナルである!」
その立ち振る舞いは彼らがよく見知っている本国の皇太后そのものであった。城壁の外から戻ってきた中年の将軍がジルシーズの言葉を思い出した。
「確かに、この方はアスナイ王女様!」
アスティは皇太子が直前まで乗っていた白馬に跨り、剣を引き抜いた。
「エスメルダの裏切りを許すでない!」
鎧の胸当てだけを当て、白馬に騎乗したアスティは、ジブナルの伝説に語られる戦いの女神そのものであった。生き残っている近衛兵たちは喚声を上げた。
「皆の者、アスナイ様の後に続くのだ!」
アスティはジブナル軍を率いて、エスメルダ軍に反撃を開始した。城壁の外側から引き返してきた部隊に助けられ、エスメルダ軍を圧倒し始めた。
城壁の向こう側から砲撃の音が近づいてきた。マルゴス軍が前進を始めたのだった。
空中からアスティを見守っていたオーウェルンは、マントを翻すと城壁に飛び去った。
マルゴス族の軍隊の真上までやってくると、最前列の騎馬兵に向かって手をかざした。すると兵士達は石像のように固まったまま、前進すらできなかった。
「ま、魔術師だ!」
マルゴス軍は騒然となった。
「いくら魔術師といえども、大砲にはかなうまい!砲撃隊は前にでよ!打ち込むのだ!」
マルゴス軍の砲撃隊とそれを守る騎馬兵が最前列に向かって進んできた。
その時、マルゴス軍の列の前に飛び出す人影があった。クォーツだった。同時に、地平線を震わせるように、狼の遠吠えが響いた。狼はマルゴスの民にとって特別な存在である。
「あれは……蒼の狼だ!」
兵士達は狼の声に畏怖を感じ、叫んだ。マルゴス軍は再び騒然となり、進軍を止めた。
「オーウェルン、マルゴスの兵を殺さないでくれ!」
「……クォーツ。」
「僕が何とかするから。」
クォーツは狼のムーンを連れて、マルゴス軍の隊列へまっすぐに歩き始めた。
「アラン様、あれは蒼の狼です。」
前線で指揮を取っていた若い指揮官が、後方に待機している中年の将軍に報告した。
「まさか、伝説の蒼の狼だとな?誰が連れているのだ?」
「分かりません、少年のようですが。」
「まさか……。」
前線に出てきた将軍は、クォーツの姿を見て、驚いた表情を浮かべた。クォーツもまた、彼をよく知っていた。
「私だ、アラン!」
「王子!」
「父上に会いたい。」
マルゴスの将軍はしばらく呆然と見つめていたが、すぐに軍列の奥へと消えていった。太陽王と呼ばれている彼らの大王のもとへと赴いたようだった。
やがていくつもの軍旗が移動してきた。華麗に刺繍された王の居場所を知らせる軍旗のようだった。王の姿を認めると、クォーツは大声で呼びかけた。
「兵を引いてください、父上!」
「クォーツ!今の今までどこへ行っていたのだ。兵を引けだと?力の強い者が力の弱いものを支配する。これがマルゴス族の運命だ。」
「ならば、父上と私の二人で勝負だ。」
クォーツは剣を引き抜いた。
「息子よ、私に勝てると思っているのか?」
「やってみなければ、わかりません。父上、私は以前の私ではないのです。」
「敗れた者には死あるのみだぞ。」
「わかっています、父上。私もマルゴス族の男なのですから!」
草原の王者とその息子の一騎打ちだった。刃が何度も交わった。王の近衛兵が二人を取り囲むようにこの勝負の行方を見守っていた。やがてクォーツの力が父王を圧倒し始めた。
「強くなったな、息子よ!父は嬉しいぞ!」
クォーツはついに大王の剣を跳ね飛ばした。
「兵を引いてください!勝利者は、僕だ!」
「さあ、息子よ。マルゴスの伝統の通り、私を殺してマルゴスの王となるのだ。」
「私が家を出たのは、そのようなマルゴスの風習を受け入れられなかったからです。我らは間違っています。少なくとも我らのやり方を他族の民に押し付けることは!」
マルゴスの王は城壁の向こう側に翻るエスメルダとジブナルの軍旗を眺めた。
「……スラババを落としたばかりで、我が兵は確かに疲れている。」
そして真上の空に浮かぶ魔術師を見た。
「魔術師オーウェルンも彼らの味方か……。」
その時、オーウェルンが何か輝くものを、クォーツの足元に落とした。それを拾い上げると、オーウェルンを見上げ、そしてそのまま父であるマルゴスの大王に手渡した。
「エスメルダの秘宝、不死の夜光の杯か。これだけで都城ひとつの価値はあるな……。」
マルゴスの大王は黙ったまま、将軍のアランに向かって頷いた。アランはマルゴス軍の各部隊に退却命令を伝えさせた。マルゴス軍は波が引くように退却を始めた。
「国へ戻ってくるのだ、クォーツ。」
「父上……。」
「王后様は毎晩のように、あなた様が帰ってこられるように祈っておられます。」
将軍のアランが続けざまに言った。
「アラン……。」
クォーツは母上、と小さな声で呟いた。そして空中に浮かんだまま成り行きを見守っていたオーウェルンを見上げた。オーウェルンは黙ったままゆっくりと頷いた。
「自分の未来は、自分で決めるのだ。」
彼はため息をつくと、ムーンの頭を撫でた。
白馬に跨ったアスティが、二人の元に駆けてきた。上半身にだけ鎧を着けている。
「オーウェルン!」
アスティの呼ぶ声を聞いたオーウェンは、ゆっくりと地上に降りた。その姿は、まるで大きな黒い鳥が優雅に舞い降りたようだった。アスティが胸に飛び込んできた。
「オーウェルン、無事でよかったわ。」
アスティはエスメルダからの撤退を指示した後、将軍にその指揮をまかせ、数騎の兵だけを警護のために連れて戻ってきていた。
クォーツが二人のもとにやってきた。
「アスティ、オーウェルン。マルゴスは我が国の交易団を受け入れることを条件に、エスメルダから軍を撤退させることにした。」
「あなた、マルゴス族の王子様だったのね。」
クォーツは、黙って頷いた。
「家に戻るよ。」
彼はアスティを抱きしめ、そして踵を返して撤退するマルゴス軍の最後尾に歩いて行った。軍と合流すると、クォーツは一度だけ振り返り、アスティを見た。
―さようなら、シナイ。
そして二度と振り返らなかった。二人はクォーツの後姿を見送った。
「……お前もジブナル王家に戻るのだ。」
「何を言っているの?」
「マルゴス族とジブナル国の戦争を避けるのだ。おまえとクォーツなら、それができる。」
「私はあなたなしではもう生きられないわ。」
オーウェルンは彼女の額にそっと口付けをした。その顔を見上げたアスティは、自分のほうからオーウェルンの唇を求めた。二人は長い間口付けていた。それは二人の人生で最も幸福な時間だった。彼はアスティの右胸の上にそっと手を置いた。
「おまえの右胸に残るこの印は、我がウェルル族がジブナル王家の一族を呪い殺すために残した呪いだ。」
アスティは、オーウェルンの手の甲の上からそっと自分の手を置いた。
「そしてこの呪いをかけたのは、私の父だ。」
「……オーウェルン。」
「父は死の間際に最後の力を振り絞って、ジブナル家の子孫に呪いをかけたのだ。」
彼はアスティの右胸の上まで服を脱がせると、その印の上に口付けをした。
「 ウェルルの血の呪い 死の呪いよ
我が愛する者の運命より
永遠に消え去るがいい 」
作品名:風の魔術詩オーウェルン 作家名:楽恵