不思議なアフタヌーン・ティー
「あのウサギを追いかけて、ここまで来たのよ」
花壇の植え込みの影に現れた白ウサギを指差した。
「どうして、あの白いウサギを追いかけたかったのかい?」
訝しげな表情で、アリスと白ウサギを交互に見る。
「……あのウサギを追いかけていけば、もう一度、不思議の国に行けるかもしれないから」
小さな声で呟いた。
「不思議の国?」
ティーテーブルに腰掛けたまま、さらに怪訝な顔つきでアリスを見上げた。
アリスはドレスの裾を持ち、慌しくお辞儀をすると、白ウサギを捕まえようと急ぎ足で歩き始めた。
「美味しいお茶をどうもありがとう!」
アリスが振り向きざまにお礼を述べたと同時に、白ウサギも再び走り始めた。またも白ウサギを追いかけて、アリスは全力で走り出した。
「ちょっと待って、アリス!」
青年も慌てて立ち上がったが、呼び止めた時はすでにアリスはシンデレラのように彼の目の前から走り去ったあとだった。
呆然と立ち尽くしたまま、小さな水色の点となったドレスの後姿を見送る。
「不思議な女の子だね、君は……」
アリスが消えた木々の間を、風が吹きぬけていった。
アリスはまたも夢中で白ウサギを追いかけていた。
そして気がついた時は、もと来た伯爵家の大きな門の前に戻っていた。
(……そうだ、お茶会はどうなってるかしら!)
母親との約束を思い出したアリスは、庭園にある茶会用の広場に急いで赴いた。エレガントに整えられた、伯爵夫人自慢のティーガーデン。
ティーガーデンでは丁度、これからお茶会が始まろうとしているところだった。
「アリス!」
姉が怒った顔でアリスを待っていた。アリスの方は、全身すっかり汗だくだ。
「今までどこに行ってたの?心配したのよ!」
「ごめんなさい。ちょっと遠出してしまったみたい」
「どこかでうたた寝でもしていたの?」
姉の横で、同じように睨みつける母に気がつき、思わず首をすくめる。
そしてやって来た伯爵家の執事に促されるように、姉と共にティーテーブルの椅子に腰掛けた。
招待客が十人前後の、本格的な茶会だ。
時間もちょうど午後4時だ。どうやらアリスは伯爵夫人主催の茶会に間に合ったようだった。
テーブルの上に用意されているティーセッティングは、先程よりもずっと優雅だった。
皿に盛られたティーフーズも豪華だ。今日の茶会は、この後、夜に開かれる舞踏会前の腹ごしらえも兼ねている。こういう場合の茶会は、スコー ン、サンドイッチ、ケーキなども紅茶と一緒にいただく。
実はティーフーズをいただく作法にも、こだわりとマナーがある。
例えばティーフーズの種類は、サンドウィッチ、スコーン、ケーキの三種類。食べる順番もサンドウィッチ、スコーン、ケーキの順と決まっている。もしも最初にケーキを食べたときは、サンドウィッチもスコーンも食べてはいけない、というのがヴィクトリアンティーの基本だ。
中年のメイドが湯気のたった熱々のポットを運んできた。
紅茶を淹れる際はいつも沸かしたての沸騰したお湯を使うのが常識だ。ポットも、茶葉を入れる前に必ず温めておくのが、美味しく淹れる絶対条件だ。
メイドはアリスの目の前でお湯を入れ、ポットにフタをして時間をかけてゆっくり蒸らした。ティーポットは片手で注いでもフタが落ちないように、フタの内側にストッパーが付いたものを使用している。
伯爵邸の執事やメイドたちは、所作も優雅で行き届いていた。
二度目のお茶会が無事に間に合い、一息つくと、アリスはさっきまでの青年との茶会を思い出していた。
(それにしても、あの庭園、見覚えがあったわ……)
アリスの脳裏に、幼い日の思い出がまたしても甦ってきた。
森の大きな木の下のテーブル。幼かったアリスは、その森で気ちがい帽子屋と三月ウサギとネズミのお茶会に参加したのだ。
(あの庭園、もしかして……。)
アリスはひっかかっていた庭園の景色について、ようやく思い出し始めていた。
(そうだ、あの方の屋敷の庭園は、私が不思議の国で見たウサギの家の庭園と同じだったわ。でも、それってどういうこと?)
ぼんやりしているアリスの様子に気づいた姉が、眉根を寄せた訝しげな顔で覗き込んできた。
「どうしたの、アリス?さっきからずっと、ぼーっとしてるみたいだけど」
姉の声で、ハッと我に帰る。
「な、なんでもないわ、姉さん」
「そう。さては、誰かに恋でもしてるの?」
「ち、違うわよ」
姉の冗談めかした言葉に動揺して、手に持っていたサンドイッチを落としそうになった。
恋、という言葉を聞いて、アリスと二人だけのお茶会で紅茶を淹れてくれたあの背の高い青年を思い出したのだ。クロケットのユニフォームがとても似合っていた。
(そういえば、あの方の名前をお尋ねするのを忘れていたわ)
手元にある金の縁取りのティーカップに視線を落とす。細かな茶葉が、カップの底にたまっていた。
ティースプーンで、お茶をそっとかき混ぜる。混ぜながら、心に浮かんだ願い事を込めた。
(あの方に、もう一度、会えるかしら?)
呼吸を整えながら、茶葉が落ち着く行方を見守った。しばらくは踊るように回っていた茶葉たちが、カップの底に静かに落ちていく。茶葉の形を見届けて、息をのんだ。
(……ハートだわ!)
アリスのティーカップの中には、大きなハートのマークが再び現れていた。
「あら、なんて綺麗なハート型でしょう。素敵な恋の予感ね」
向かいに座っていた伯爵夫人が、アリスのカップを覗き込んで微笑んだ。どうやらアリスと姉の先程の会話は、夫人にも聞かれていたらしい。アリスは恥ずかしさで目を伏せた。何故だか顔が赤くなった。
まぶたの裏に、青年の姿が浮かび上がる。
(もう一度、あの方に会いたい)
「茶葉の位置からして、恋はもうすぐよ」
隣に座っている姉も、面白がるようにカップを覗き込んだまま囁いた。
茶葉の位置は、占い結果が起こる時間を表す。カップの飲み口のすぐ側にある場合、占いの結果がもうすぐ現れるということだ。
(まさか、この後の夜の舞踏会で?)
アリスの頭に、今夜の舞踏会のことが過ぎった。茶会の後には、夫人主催のダンスパーティーが開かれる。
今夜の舞踏会には、伯爵邸の近隣に住む上流貴族ならほとんどが招待されるはずだ。
それからのアリスは、ずっと心が落ち着かずにいた。
お茶を飲みながら招待客がくつろいでいる間にも、日が暮れ、邸宅には明りが灯った。
アリス母娘三人も、客間の一室を借りて、舞踏会用のドレスに着替えることになった。
伯爵邸の別館では、華やかな舞踏会の準備が整えられていた。招待された客人が大勢集っているようだ。
洗練された身のこなしの紳士にエスコートされた貴婦人たちは、思い思いに着飾り、ドレスアップしていた。彼女らが美を競い合っている様子は、大輪の薔薇が会場に色とりどりひしめいているようだ。
頭上にシャンデリアが輝く。
楽団たちがワルツを軽やかに奏でる。
そしていよいよ、舞踏会が始まった。
履きなれないヒールの高い靴に気をつけながら、アリスもゆっくりと広間を歩いた。
作品名:不思議なアフタヌーン・ティー 作家名:楽恵