不思議なアフタヌーン・ティー
ドレスの裾をたくし上げると、ウサギを追いかけてクロケット場を一気に走り切った。
やがて息を切らせたアリスが立ち止まると、ウサギの方も歩みを止めて振り返る。つぶらな赤い眼がアリスの方をじっと見つめた。近づくとウサギは走り出す。その繰り返し。
しばらくして、自分がいる場所周辺の景色がすっかり変わっていることに気がついた。
木々が植えられ、花壇に薔薇が咲いていた。近くから、噴水のせせらぎが聞こえてきた。
そこは誰か他人の屋敷の庭園のようだった。
無我夢中でウサギを追いかけているうちに、いつの間にか他人の屋敷内に勝手にはいりこんでしまったらしい。
(ここはどなたのお屋敷かしら)
その庭園は、敷地の広さこそ伯爵邸の庭園に比べて小さかったが、花壇や芝生の手入れは庭の隅々まで丁寧に行き届いていた。それだけで屋敷の主人の心使いが伝わってくる。
明るい花々の蕾がほころび、涼しげな噴水の周りに蝶が数匹戯れている。
庭園は、アリスの好みにぴったりだった。
嬉しくなって、ドレスを翻しながらぐるりと辺りを見回した。
(それにしても、本当に素敵な庭園だわ)
けれど、しばらく経ってから、またあることに気がついた。その庭園の様子に、どこか見覚えがある感じがしたのだ。
(このお庭、どこかで見覚えが……でもどこで……)
ふいに背後から誰かが近づいてくる気配がして、アリスは振り返った。
見知らぬ一人の青年が、トレイの上にティーセットを載せてやって来るところだった。
突然に屋敷の住人に出くわしたアリスは、飛び上がって驚いた。青年の方もアリスに気がついたらしく、歩みを止めて、ぽかんとした表情で立ち尽くしている。
青年はアリスよりいくつか年長に見える。二十歳過ぎくらいだろうか。
白い襟付きのシャツ、白いズボン、帽子にクリーム色のベストを着て、それはクリケットの白のユニフォーム姿である。
慌ててスカートの裾を持ち、腰を屈めて挨拶した。良家の令嬢らしい、優雅なお辞儀だ。
「ごめんなさい。勝手にお屋敷に入り込んでしまって」
「……君は誰?」
自分の屋敷のティーガーデンに突然現れた少女に対し、青年は驚いた様子でアリスの名前を尋ねた。
「私はアリス。近くの伯爵様に招待されてロンドンから来たの。お屋敷の庭園を散歩していたら、いつの間にかこんなに遠くまで来てしまったの」
「ああ、伯爵家のお客さんか。しかし驚いたな。知らない女の子が僕の家のティーガーデンにいるなんて」
伯爵家の招待客と知って、青年は少し警戒心を解いたようだった。ティーセットをテーブルの上に置く。
「クリケット場を見つけて、試合が見たいと思ったの。そしたらいつの間にかお宅の庭園に迷い込んでしまったみたいで」
「へえ、君はクリケットが好きなの?」
青年は意外そうな顔をしてアリスに尋ねた。
「ええ、私、クリケットが大好きよ」
スポーツ好きな女の子は、アリスが生きているビィクトリア朝の社会ではまだ珍しい。
クリケット好きだと知って、青年は目の前の少女にさらなる親しみを感じたらしい。茶色の瞳に、先ほどまでとは違った優しい光が宿っている。
「試合が近くてね。さっきまで友人たちと練習していたんだが、みんなティタイムを待たずに途中で帰っちゃて。おかげでティータイムを一人きりでするはめになった」
青年は肩をすくめて呟いた。
クリケットは、勝敗よりも社交を大切にするスポーツだ。なんと試合中にティータイムがある。試合時間の長いゲーム形式の試合のときには、2時間に1回、紅茶を飲みながらおしゃべりをして休憩するのだ。
青年はティーセットをテーブルの上にセッティングしながら、アリスを友人の代わりに茶会に参加させることを思いついた。
「そうだ君、ここで少し、お茶していかないかい?友人のために用意した分が余ってしまうともったいないし」
テーブルの上のティーセットを見た。ティーポットやカップもお洒落な白磁の陶器で、皿に載せられた焼きたてのクッキーもとても美味しそうだった。
「ありがとう。じゃあ遠慮なくいただくわ」
後ろに引いてくれた椅子に、腰掛ける。
彼は器用な手つきで片手にティーポットを持ち、中の紅茶をアリスのカップに注いだ。ヴィクトリアンティーの正式な作法だ。
アリスはカップを右手の指で静かに持ち上げて、その紅茶を飲んだ。
お茶をひと口含んだだけで、香りがふわり、と広がった。上質の茶葉は、匂いを嗅いだだけですぐに分かる。
「おいしい!」
思わず顔をほころばせ、満面の笑みを浮かべた。
「僕にはお茶を美味しく入れる自信があるんだよ」
青年もにっこりと微笑んだ。その笑顔を見て、アリスもまた初対面の人に対する硬い心が緩んでいくのを感じた。
自分のカップに残りの紅茶を注ぐと、青年は上着から金製の懐中時計を取り出し、蓋を開けて針を覗き込んだ。アリスの位置からも時計盤が見える。
時計の針が、午後3時過ぎをさしていた。
(公爵夫人の茶会は、確か4時から始まる予定だったわ)
アリスは自分がこの地に来た目的をようやく思い出した。
それとは別に、この光景にもまたどこかで見覚えがあった。特に青年の手の中にある金製の懐中時計が妙に気になる。
(あの懐中時計、見覚えがある。でも、どこで……)
手元に視線を戻したアリスは、ティーカップの底に茶葉が溜まっているのに気がついた。
「……そうだ、お礼に紅茶占いをしてあげる!」
「紅茶占い?」
青年は問い返して、アリスの青い瞳を見た。
この時代、ポットの中の紅茶を入れる時は、茶葉をそのままカップに注いでいた。するとその時、茶葉も一緒にカップに入り、底に溜まる。紅茶占いとは、その茶葉の形を見て、自分たちの未来や恋愛などを占うことをいう。カップの底にくっついた茶葉の形や枚数が、占いの判断材料となるのだ。
紅茶占いは、茶会の席で女性達に楽しまれている習慣の一つだった。
想像力豊かなアリスは、紅茶占いが得意だ。
青年が差し出したティーカップを覗き込んだ。白いティーカップには、縁全体に小さな星のような模様が描かれている。
ティーカップを見つめるアリスの瞳の中に、薔薇の花が蕾を咲かせるように浮かび上がってきた。
「……薔薇の花だわ」
アリスは呟いた。
「薔薇?それはどんな意味があるの?」
青年も興味津々といったふうだ。
「花は愛情を表すの。これは、もうすぐ恋人ができる暗示ね!」
アリスの言葉を聞くと、信じられないといった顔で自分のカップに残る茶葉を見つめた。
「本当かい?恋人候補になるような女の子、身近にいないのにな」
そう言ってから顔をあげ、アリスの瞳を見つめた。
間近で目が合うと、何となく気恥ずかしさを感じた。そして慌てて今度は自分のカップを見た。アリスのカップの底にも茶葉が溜まっていた。
(……ハートだ)
カップの底の茶葉は、大きなハートの形を模っていた。
「君の占い結果は?」
黙って俯いたままのアリスに気がついて、今度は青年がアリスの占い結果を尋ねた。
「私の占い結果は……」
アリスが自分の占い結果を言いかけた時、視界の隅に、白い影が走った。
顔を上げて、その方向を見た。アリスがさっきまで追いかけていた、あの白いウサギだ。
「あ、ウサギが!」
アリスは椅子から立ち上がった。
「ウサギ?」
作品名:不思議なアフタヌーン・ティー 作家名:楽恵