シャングリラの夢:後
永遠に生きることはまだいい、その中で自分は、きっと無限の人との交流と安らぎを得ることができる。けれど、自分が大事に思った人の、理想郷での幸せを願った者の、その心の中に自分はいられない。忘れられてしまう。忘れさせてしまう。年月が、あるいは神が。
どうして。どうして。嫌だ、もう嫌なのに。忘れられるなんて、存在しないように扱われるなんて。
「いや、いやだよ、いやあっ! 誰か、だれか、だれでもいいから!」
救いを求める。遠くへ。彼方へ。……あるいはそれは、理想郷へなのかもしれない。
もうそんなこと、少女の意識にはなかったけれど。ただただ、静寂を切り裂くように、少女は天を振り仰いで――、
滂沱の涙と悲しみでぐちゃぐちゃになった顔で、希う。
「私のこと、忘れたりしないでぇっ!!」
それだけで、いいからと。
……くたり、と。少女は生気が抜けたかのように、身体を弛緩させる。しばしの沈黙の後、続くのはすすり泣く声。誰もいない墓地に、細く響き渡る。
そう、少女以外は誰もいない。そのはずであったのに。
聞こえたのは、青草の音だった。青草が質量につぶれる音。いつか荒野踏んだ枯れ草と、けれどそれはどこか違う。
それは、彼のひとの足運びのせいか。それとも、重心の位置のせいか。……どちらにせよ。
もう一陣吹いた風は、彼の黒い聖衣をばさばさと鳴らして――。
「――僕は、忘れませんよ」
答え。それは果たして、理想郷があるという天からのものか――否。
違う、背後だ。後ろ、墓地の入口の方。そしてそこからどんどんと近づいてくる者こそが、あの声への返答者。
誰だろう、と考える。……いいや、自分に嘘をつくのはもうやめよう。少女の耳はその声をちゃんと捉えていた、だから気付かないはずがなかった。
その澄んだ、細いボーイソプラノ、あるいはコントラルトの声音に。
少女は振り返る。亜麻色の髪が視界の端で舞って、けれどそこから黒い聖衣が、細身の身体が、そして――、
「僕は忘れません。……忘れはしませんよ、絶対に」
空色の瞳と金の髪、そして雪花石膏の肌で構成される『彼』を、アンバーの瞳に映した。
「あらば、すた……」
呆けたような声。それにアラバスタはわずか、こくりと頷いて。
そして、言葉の続きを声へと乗せる。
「約束します。あなたを僕が覚えていますよ。どれだけの人が理想郷に至ろうと、長い歳月の中であなたの影を失おうと。僕だけは、あなたを覚えています」
目を瞬かせて、少女はただそれに聞きいる。そして、何度も何度も、その言葉を頭の中で繰り返した。
……聞き間違えなどでは、ない。彼は確かに言っているのだ。『僕はあなたを覚えている』と。
それに、まずなによりも熱を持った戸惑いじみたものが先に立って。半ば無意識に、問いかけていた。
「どうして……、どうして、そんなことが言えるの? 取りつくろうための嘘なんていらない……、冗談なら、」
「嘘なんかじゃ、ありませんよ。僕は絶対に忘れません」
少女の反言を遮って、断言。どうして、と少女の口が、また問う。
アラバスタはそれに、静かに、けれどはっきりとした決意を語るように、言葉を紡いだ。
表情などはその顔にはない、けれどまるで、微笑むかのように。
「……僕は人形です、理想郷になど行きません。それはつまり、僕の世界はここひとつきりってことなんです。あなたがいて、神父さまがいて、あの子たちがいて、リーゼッタがいた、この世界だけ。だからこの世界にいる人がすべてで、だから――」
あなたのことも忘れない、とその唇が言う――そんなはずはないのに。人形の顔は動かない、それは少女の幻覚。けれど、その幻が拭えない。
まるでわずか開いた薄紅のそこから、声を出しているような、そんな気がして。
「あなたが望むなら、いつか僕が壊れるそのとき、あなたを空に描きましょう。無に帰す前に、忘れぬように。永遠に、あなたを心に刻んでおけるよう」
彼は身体を屈める。座りこむ少女と目線を合わせるように。球体関節が露わな手を差し出して、首を少し傾げる。
ああ、次は、目が。そのきれいな空色の瞳が、細まった、そんな幻だ。だからか少女は、その白い手に、まるで魅せられたように手を重ねて。
その上を、彼の大きな手が、包みこむ。
「――約束します。あなたの涙が、もう二度と流れぬように」
尊い誓言と、共に。
唇の端が、ほんのわずか上がる――、それはとてもとても美しい、幻影で。
数瞬、彼の言葉とその幻視に、心を奪われて。けれど冷静な思考へはすぐに行きつき、少女は彼の手を払う。そして、彼から顔をそむけた。
そして言う。自分でも言いたくなどないことを、けれどこれ以上傷つくのを恐れるように。
「……嘘でしょう。あなたは私のことなんて、忘れてしまうわ」
絞り出すような、声。今にも泣き出しそうな、声。ああ、それは本心でないことの証か。
今度は、彼がどうしてと問う。横目で見たその姿は――いつもの、秀麗なる無表情だった。それに一抹、安堵とも落胆とも知れない想いを、胸にしまいこんで。嗚咽で震えていた唇は、ひどく冷たい声を吐く。
「だって、私はひと時いただけの旅人よ? だからきっと、あなたの記憶の中に埋もれてゆくわ。忘れてしまう。だから……、そんな気遣いなんて、いらない」
嘘だ、嘘だ。こんなことは言いたくない。本当は、彼に飛びついて泣きじゃくりたくてたまらないのに。自分に嘘をつくのはやめても、人に嘘はつくというのか。
嫌だ、違う、嘘だ。こんなことが言いたいんじゃないのに!
だけど、また。怖いのも、同じく事実であったから。
「いらない……、いらない。無駄な希望を持たせるのはやめて……! 嘘なんて、つかないでよ!」
嘘をついているのは、自分のくせに。
この臆病は、紛れもなく本物で。
「私は、わたしは嘘も、いつか潰えるひかりもいらない! だから、だから!!」
その後を、自分はどう続けようとしたのか。耳を塞ぐように角をつかみ、叫ぶ。
けれどその先は、また目前に映った空色の瞳を見ると、途端に霧散して。
「ならば――あなたと共にいます」
その言葉だけが、やさしく耳に流れこんできた。
「あなたの傍にいます。忘れたりしないよう、ずっと隣に。僕が壊れるその日まで――ずっとずっと」
なんの抵抗もなく、中性的な声が、脳に染みこむ。そしてするすると、その内容を理解させた。陳腐な表現をするならば、まるで魔法のように。やさしい、陽だまりのような暖かさで。
どうして、と呟く。けれど、何に対してかは、少女自身きっと分かっていなかった。いくら混乱し、ばらばらになった思考といっても、この瞬間だけは純化されていたはずなのに。魔法なのに、おかしいの。そう感じた。
アラバスタは彼なりにその先を解釈したのか、口を開いて笑んだ――ように思えた。
「理想郷とまみえることのないこの身にとっては、この世界こそが、理想郷とすべき場所なんですから。その中で、あなたをかけがえのない存在とすれば、永遠にあなたを忘れたりなどしません。だから――、」
す、と。白い、滑らかな手が。少女の前に、もう一度伸ばされる。
作品名:シャングリラの夢:後 作家名:故蝶