シャングリラの夢:後
……鐘が鳴り響き、葬送式は終わりを告げる。陽が暮れ、誰もが家へと戻っても、少女は墓地で花を手に、真新しい墓の前に膝をついていた。
「……」
たった一時間。顔を合わせたのは、せいぜいがそれだけだった。交わした言葉など、あれ以外にはほんのいつつむっつ。けれど、少女は彼女が理想郷に赴いて今、思うのだ。
――ああ、また置いていかれるのか、私は。
もちろん、リーゼッタに文句をいう筋合いなどない。彼女は自分とつきあいが深いわけでもないし、第一、彼女だってもう少し長く家族や友人と共にいたかったに決まっている。理想郷で友達ができるのかと、それを心配していたように。
けれど。少女がまず思ったのは、間違いなくそれだったのだ。
……おそらく、これは半ば反射的なものだ。母や父や兄たちが理想郷に行ったときにも、同じ気持ちを噛みしめた。条件反射。ベルを鳴らせば唾液を垂らす犬のよう。
それでも。老いもせず、死ねもしない、この身体が経た歳月には。それだけの人の旅立ちが、確かに存在している。
「……神さま」
呟く。母さま、ではない。語りかける対象は神。理想郷の光輝の座におわす、世界の支配者。
ぽつり。もうひとつ。聖印を刻みこまれた墓石の前で。土の下の彼女の手をとった者へと、その口を開く。
幾度かの逡巡を経て。潰えた期待をまだ抱え。けれどはっきりと、それを打ち棄てて。覚悟を伴い、言う。
これが――、少女の出した答えだった。
「あなたは……私たちを理想郷に誘(いざな)っては、くれないのね……」
……言葉に出して言った途端、胸がひどく締めつけられた。
ずきりずきりと、いばらに絡め取られる痛み。ぽっかりと、胸腔に黒く巣食う空虚。けれど、少女には分かる。これは、真実を得た証だと。自分は、希望という名の嘘を信じていたのだと。聖典がつく嘘を。皆が口をそろえて言う嘘を。
「……いいえ違うわ、そうじゃない」
首をふり、ひとりごちる。そうだ、違う。これはひどい責任転嫁だ。なぜなら、なぜならば。
「聖典は嘘をついていない、誰も嘘をついていない。……だって、そう書いてあったもの」
そう、聖典は述べていた。あの日あの時読み上げた、その節に。
「――『どんな罪人であろうと、等しく理想郷へ招かれる権利を持つ』。『汝ら、憐れな山羊を賛美せよ。理想郷を、待ち焦がれよ』……。それは、『贖罪の山羊が、すべてを引き受ける』からで、『汝らの罪は彼らが背負う。生まれながらにその罪を負う』から。……そう書いてあったものね」
ああ、なんて間抜けなんだろう。こんなところに答えはあったのに、目を逸らしてきた自分は気づかなかった。少女はそう、自嘲する。
誰も責められない。誰も咎められない。それから逃げていたのは、あの時アラバスタに問われてるまで自覚すらしなかったのは、他ならない自分であったのだから。
――思えば。少し考えれば、分かることだったのだ。
「私たち、この醜い角を持つ者は『贖罪の山羊』なのね。この世界の人々の罪を負って生まれた、荒野に追われる山羊(スケイプゴート)。……だから」
耳の上。こめかみの後ろ。――ねじくれた角が生える場所。
少女はそこを頭巾越しに握り、言葉を吐く。
「私たちは、あなたの子供じゃない。神さま、あなたの子として認められていないのね。だから私たちは理想郷には至れない。……どんなに巡礼をして、希望を保ち続けても、至れるはずなんてなかったの」
バケモノ。そう言った少年は正しかった。人間でないというなら、アラバスタのように人形でもないというなら、この身は化け物以外の何なのか。老いず死なず、時の止まった体で永遠に生きるヒトガタ。神の寵愛を受けられないそれは、まさしく化け物と形容するに相応しい。
ふふ、と少女はしばし、身を震わせる。笑みのように、自虐のように。涙のように、嗚咽のように。
ああ、自分はすべて理解した。随分自身をごまかしてきたけれど、それもお終い。自分はこれから化け物として生きて、生きて、生き続ける。同族たちと同じように。理想郷になど、行けないままに。それは受け入れなければ仕方がないことだ。
けれど……けれど、けれどけれど。
「…………どうして?」
ぷつ、と一瞬で震えを止めて。俯く少女は、墓標に捧げた数輪の花を見やって、そう問うた。
それは、答えるものも、そもそも答えすらない問いかけ。それは分かっている。いるけれど、それでも。少女は聞かずには、いられなかったのだ。
「どうしてなの……? どうして、私たちがこんな目に遭わなきゃいけないの?」
風が吹く。亜麻色の髪がなびく。花の花弁がそれに耐えるようにして揺れた。けれども、一枚のスミレの花弁が、風にさらわれて視界から消える。
それは、もしかしたら自分の象徴なのかもと、そんなくだらない考えを心の隅に抱えて。少女は、なおも声を続ける。
「私たち、何もしてない。何も悪いことなんてしてないわ……。生まれたら頭に角があって、普通に親に育てられて、普通に兄弟に可愛がられて、普通に友達と遊んで……、それだけよ? なのに、なのにどうして……」
分からない。知らない。世界の秩序などが、どうして自分を的に選ぶ必要があったのか。その正当性が、どこにあったのか。
そう。この先のことを受け入れることはできても、納得することなど――、
「――できるはず、ないでしょうッ!?」
涙。嗚咽。叫びにあったのは、悲嘆に咽ぶそれ。笑みも自虐も、もうどこにもない。
「母さまも父さまも兄さまも爺さまも婆さまも! 二ーナもフィリップもアレクセリフも……リーゼッタだって! みんなが傍にいてくれるなら、山羊でも化け物でもなんだっていい、でも!」
求めたのは、彼らのくれる安らぎ。もうはるか昔に失って、けれどまだセピア色の記憶に縋れば思い出せるそれ。それが未だに愛しくて、狂おしくて、今でさえ求めてやまないのに。
「みんな理想郷にいる中で、どうして私だけが、置いて行かれなきゃならないの……!?」
その機会は、もう永遠に失われているのだ。
少女は、虚脱したように声を落とす。激高して振り乱していた髪も、それに合わせて肩に流れてきた。そして、独白のように呟く。
「……みんなが理想郷に至って、何年経ったの……? 私はまだ、彼らの心の中にいるの……? ……そんなはず、ないわよね。忘れられてるに決まってる」
知っている。真実を悟った際に、それも理解した。それもまた、気づいていないふりをしたことだから。
もしかしたら、自分が『人間』であったなら、希望はあったのかもしれない。神はその子供である人間を、限りなく愛する。けれど、自分は神の子ではないのだ。神だって親。自分の愛しい子の中に、忌まわしい化け物の記憶を留めさせておきたくはないだろう。
自分は結局、彼らの心にすらいられない。
「いやだ……」
訴える。ただの弱い少女が。嗚咽にまみれた声で、夕陽に染まりながら、心からの慟哭を。
「いや、いやぁ……。母さま、私を忘れないで……! 私を捨てたりしないで……っ!」
もう、嫌だ。忘れられるのは嫌だ、誰の心にも居場所がないなど嫌だ。
作品名:シャングリラの夢:後 作家名:故蝶