シャングリラの夢:後
手袋をつけなおしたのだろうか。そこに球体関節は見えない――あるいは、これも幻覚なのだろうか。けれどもう、それでもいいような気がした。少なくとも、彼が前にいること、これは幻影などではないから。
この一瞬さえ夢でなければ、それでいいから。
彼を見つめる。彼も少女のアンバーの眼をまっすぐ見据え、言う。
――微笑んで。それ以上の形容がないような、声と動作と幻影で。
「ともに歩みましょう。理想郷などない僕たちでも、幸せくらいつかめるんですから」
にこり、と。その笑顔が見えたと同時。ためらいなどどこにも挟まずに。
少女の小さな手が――彼のそれを取った。
彼の声が、喜びをまとう。それが少し、照れくさくて。彼の手を、ことさら強くつかむ。痛がる様子など見せず、彼はまた歓喜の色を深めた。
……暖かい。彼の手はいつも冷たかったのに。これも幻か、それとも、自分が冷たいのか。
そう聞くと、彼は少女の手を引いて立ち上がらせながら、また笑った。
「あなたは暖かいです。まるで陽だまりの中にいるようで、とても心地いいんですよ。だから傍にいてくれると、僕が嬉しいです」
……また平然と、恥ずかしいことを。
それに『陽だまり』だなんて、それは先ほど自分が思ったことで――。
ふう、と少女は盛大にため息をつく。怪訝そうにその顔をのぞきこんだアラバスタに、少女は辛辣に予言した。
「……あなた、きっと将来巨大ハーレム形成するわよ。さっきみたいなこと言いまくって」
「え、そんなことはないですよ。生まれてから結構経ってますけど、今みたいなことを言ったのはあなたが初めてで、え、あれ、なんですかその目は」
「疑ってるの。当然だわ。少しだけ、リーゼッタの気持ちが分かるわね」
「え? それはどういう……、あ、ああっと、どこ行くんですか?」
「教会に。神父さまに言わなきゃいけないもの。巡礼はやめますって」
「え、え? あの、いえ、別に僕があなたについていくのでも構わないですし、そう結論を急がなくとも」
「いいの、これが私の意志。あなたは黙って見てて」
「――アナスタシア!」
名を呼ばれる。彼の、ボーイソプラノともコントラルトともつかない声音に。
――ああ、なんだか、久しぶりに自分の名前を聞いた気がする。何度も呼ばれているのに。変なの、ね。
そう可笑しく思って、手をつないで教会へと先行する少女は、夕陽のなか振り返って――、
「……ありがとう」
囁いて、微笑む。夕暮れが世界を淡く照らしだし、あたたかい風が、頭巾をゆるくほどいて――。
――その瞬間。
杯の赤い水が、尽きた。
作品名:シャングリラの夢:後 作家名:故蝶