シャングリラの夢:後
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それからの日々は、流れるように過ぎていった。
神父を手伝い、ミサの準備をする。神父と自分の食事を作る。掃除をして、洗濯をして、神に祈って――けれどあの時彼の問うた言葉が、耳から離れない。
あの日以来、彼とはどこかぎこちない関係が続いていた。彼は責めたわけではない、それは分かっている。けれど少女は糾弾されるのが怖くて。彼と目を合わせることが、どうしてもできなくて。
それは彼も同様なのか。少女に対する態度は、どことなく気まずそうだった。あるいは少女を憂えているのか、……もしかしたら、疎ましく思っているのか。
少女は事あるごとに考える。あの日彼の言ったことを。考えて、考えて、考えて、そして。
杯に残った少女の血が残りわずかになった、その日。
とある幼い少女の葬送式が、粛々と営まれていた。
「――彼の者の傍らに、光輝あれ」
神父の声が、朗々と礼拝堂の中に響く。いつもの和やかな面影は、祭壇で聖典を読み上げる彼には微塵もない。そこには、葬式を執り行う者に値する壮麗さが、確実に宿っていた。
「彼の者が神に導かれるその時、理想郷への道程が安らかならんことを。その先に幸あらんことを。善き旅、善き友、善き微笑みに恵まれんことを」
祭壇の前には、棺があった。花で囲まれ、自身もその内部に幾輪もの花を満載する棺。そしてその中央には――横たえられた小さな肢体。
祭壇の脇に立つ少女はそれを、痛ましさが募る視線で見つめていた。
「……」
色とりどりの花の中、手を組み、仰向けの状態で目を閉じる少女。長い黒髪が映える彼女、それは間違いなく、あの日のリーゼッタだった。
あの翌日、突如病状が悪化して意識を失ったらしい。必死の対処も実を結ばず、とうとう昨日の遅く、息を引き取ったのだという。
リーゼッタ。幼いながら、自分の最期を覚悟していた少女。先に理想郷があるとはいえ、そこでは母や父や周囲の友人とは、長い長い時間をかけなければ再会できない。だのにあそこまで落ち着いた態度で自分の末路を受け止めていたことは、驚嘆に値する。――誇っていい。
ちらり、とアラバスタの方へ視線をやる。彼の白磁の顔貌に、やはり表情はない。けれど、確かに少女は、そこに悲しみの色を見た。そして、彼にとっては永遠の別れへの痛みも。
「彼女は善き少女であった。胸を蝕む病苦に耐え、周囲に笑顔を振りまいた。家族、友、街角のひとりに至るまで、窓越しにでもその姿を見たことのないものはないだろう。――理想郷での彼女の安寧を、心より願う」
これは聖句ではない。神父の嘘偽らざる本心からの言葉だ。リーゼッタへの感情が余すことなく詰められた、神の配下に相応しき、慈愛溢るる餞。それに、最前列の長椅子に座るリーゼッタの両親の眼に、堪えていた涙が浮かぶ。
理想郷。そこに彼女は旅立ち、両親とは長い長い別れの日々が続く。自殺は戒律で禁じられているゆえ、その時期を早めることもできはしない。けれど、あのリーゼッタを育てた親だ、それを乗り越えてみせるだろう。
最後に街の聖歌隊により鎮魂歌が捧げられ、棺の蓋が閉じられる。荘厳な重みを伴ったそれは隣の墓地へと運ばれ――その姿が、土の中へと埋められていく。
あの時微笑んだリーゼッタ。その愛らしい顔が、浮かんでは聖印のもとに消えてゆき、心を苛む。そして。
あの時の――言葉も。
『おねえちゃん』
『……アラバスタおにいちゃんを、よろしくね』
作品名:シャングリラの夢:後 作家名:故蝶