シャングリラの夢:後
少女には、彼の辿る道が恐ろしかった。理想郷に至れないこともさながら、その心がなくなってしまうことも。
無。何も見えない、聞けない、話せない、感じられない考えられない――無。その中に放りこまれることは、身がすくむほどに怖くてたまらない。
少女は、生き続けているのは辛いと思う。けれどそれは、理想郷に皆がいるからだ。この世界にはいないからだ。誰もかもが、自分すらもがなくなる無に呑まれたいなどとは思わない。だから、そう。
彼が、とてつもなく優しく、美しく、そして――哀れだと、そう思うのだ。
「……僕には、あなたの方が心配ですよ」
ボーイソプラノ、あるいはコントラルトの、アラバスタの声音。それが鼓膜を揺さぶって。少女はいつからか俯いていた顔を上げる。椅子の背を挟んだ彼も、その視線を真っ向から受け止める、否、見つめ返した。
空色の瞳。それは穏やかな色で、けれど意志がにじむことはなく。それゆえに、彼の心の内を知るには、次の言葉を待つしかなかった。
口を開くことはない。息遣いも、人形にはありえない。だから、待ち焦がれた次の言葉は突然で。
「あなたは理想郷に行けなくても……大丈夫なんですか」
だからその内容を理解するのに、わずかの時間を必要とした。
「……え、」
短い思考停止の後、絶句。そして目が見開かれ、身体が強張った。
少女も理性を失っているわけではない。彼が言外に言っていることは咀嚼した、理解した。けれどなお、その意図が分からない。
『なぜか』は自明。それは先の、あの外での言葉と同じ。あたかもこれは、少女が理想郷に至れることはないとでも言っているかのよう。……そんなことなど、ありえないのに。そう信じているのに。
どういう意味、と平坦な早口で問う。彼はそれとは正反対に、落ち着き払ったような声で応じた。
「仮定の話ですよ。あなたはひとりで世界を歩む。なのに理想郷に至れはしない。――そうだとしたら、あなたは生きていけるんですか」
まるで儀式の際の神父のよう、彼は厳粛に述べる。違うのはその声域と、その言葉が聖句などではなく、れっきとした彼の思いだということだった。その雰囲気にのまれながらも、少女は首を振る。
彼の問いへの否定ではない。その前提に対する、拒絶で。
仮定? 自分が理想郷に行けない、仮定? そんなものは……嫌だ。
嫌だ。嫌だ、そんなおぞましいことは。これまで考えたこともなかったのに――違う、そうじゃない。必死に目を逸らしてきたのに。
心の奥底、あるいは片隅でわだかまっていたもの。それにずっと気づかないふりをして、触れないようにしていたのに。そのために、ずっと、この巡礼を続けて。
信じて、きたのに。
「あなたは――どうするんですか」
少女は答えられない。深く俯いて、亜麻色の髪で自らと外界を隔絶する。視界に映るのは、その隔壁と小さなひざ頭。そして、部屋を去ってゆく彼の影。
ドアが閉まる。足音が遠ざかる。頭を抱えるようにした少女の手は、籠目模様の頭巾を、強く握りしめていた。
母さま、とは、もう呟かずに。
作品名:シャングリラの夢:後 作家名:故蝶