シャングリラの夢:後
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――母さまは四十年前に理想郷へ招かれた。父さまは、その十年ばかり後だ。
兄さまはもっと生きてたけれど、二十五年前にやっぱり理想郷に。
爺さまと婆さま……確か、馬車事故。いつかは記憶の彼方で、顔も忘れてしまった。
二ーナ。可愛い妹分。あの子はいつだったろう、もう思い出せない。六十年……、七十年? 分からない。私も『本当に』子どもだったころだから。
流行り病だった。私もかかっていたけれど、苦しいだけ、それ以上はない。理想郷には行けなかった。あのころは、直ってとても嬉しかったけど。取り残されえた二ーナの家族のことを思うと、今は慙愧の念しか起こらない。
けれど、おそらく彼らも、今頃は理想郷でまた楽しくやっているだろう。温かい家庭だった。きっと、母さまも父さまも兄さまも、爺さまも婆さまもその輪の中に混ざってるんだ。多分、三十三年前に招かれたフィリップも、二十八年前に旅立ったアレクセリフも。
……母さま。誰より優しかった母さま。頭巾をくれて、私に角を隠す手段をくれた。いつかは私も理想郷に行けると、二ーナが理想郷へ赴いて泣きじゃくっていた私を諭してくれた。
ああ、でも、母さま。いつでしょう、その日はいつでしょう。
兄さまが老衰で死んでから二十五年間。私はずっと巡礼をして、理想郷を追い求め続けたのに。なのに、一向に理想郷に迎え入れられないのです――死ねないのです。
何をしても。どんな激しい痛みがあっても。傷はすぐに癒え、私は理想郷へと導かれない。自殺は戒律に触れるから、やってみたことはないけれど。やってもきっと死ねはしない。
――この角のせいだ。私が未だ理想郷に至れないのは、この醜い山羊の角のせい。
これが巡礼者の、否、巡礼者となるべき者の証。理想郷に招かれない者の。死ねない者の。けれど人である以上、いつかは理想郷へと歩める存在――そうでしょう、母さま。
私は必ず理想郷へと行きます。どれだけ時間がかかろうと、あなたたちのもとへ。
だからどうか、母さま父さま兄さま――みんな。
どうか私を、私のことを、
「――わすれないで――」
しゃっくりあげ、吃音を挟みながらも。少女は涙の中で、それだけははっきりと言う。
目前には神父。あの後に教会へと戻り、あてがわれた部屋の中央にあるテーブルについている。
アラバスタはいない。頭巾を取り戻しにいくのだと言っていた。少女を神父に託して、聖典を置き、出て行った。
そして。一時間以上たって、まだ帰らない。
「……ええ、誰もあなたのことを忘れなどしません。あなたには神の導きがありましょう。いつかはきっと、理想郷へと至れるはずです」
神父の眼が慈愛を湛え、まるで懺悔室の信者に対するように、言う。そして少女の額に聖印を切り、長い祈りを捧げてくれた。
忘れられたりしない。みんなは彼女を忘れていないと、彼は断言した。けれど――けれど。
本当に、忘れられないだろうか。だってもう、兄が理想郷へ行ってから経った歳月は、二十五年にもなる。それだけの時間が経ったなら、みんな、自分抜きでの新しい生活を築いているのでは、と。少女は、鼓動すらも不安にまみれた胸腔で思う。
だから、一刻も早く至らなければ。彼の言うことを信じないわけではないけれど。それでも、早く。
理想郷へと――、至らなければ。
耳に、軽い音が届く。軽く硬い、木を叩く音。ノックの、音。
「…… 。神父さま。アラバスタです、戻りました」
名を呼ばれ、神父が了承を返すと同時、アラバスタが扉を開けて入ってきた。
神父に数言労いの言葉をかけられ、彼は一礼する。その後、二言三言言葉を交わし、神父は廊下へと消えていった。
真昼の陽に照らし出された、停滞のような静寂が。まるで明色の泥のように、部屋にわだかまる。
何か言わなければ、それは分かっている。けれど、自分は――、何を言えばいいのか。
迷う。惑う。涙で霞みがかった意識で、それでも。長い、長い思考に身をやつす。
結果――、先に声を出したのは、彼の方だった。
「……頭巾、取り戻しましたよ。安心してください。汚れとか、破れはしてないので……」
張りついた無表情が、今はけれど少女を案ずるように凝視している。だけども少女は顔を上げない。俯いて、他の一切を遮断するかのごとく、疲弊した瞳で足元を見やる。
数十秒、いや数分か。彼はそんな彼女を厭うでもなくじっと見守り、次に言葉を発した時に、神父から受け継いだ席を立った。
「……頭巾。つけましょうか?」
少女はそれに、こくりとだけ頷く。それだけの動作もどこか億劫だったけれど、頭巾が、遠くへと行ってしまった家族とのつながりが戻るのかと思えば、身体が勝手に動いていた。
アラバスタは少女の背後へ回り、頭巾を折りながら、静かに言う。
「あの子たちを、悪く思わないでやってください。いつもは元気ですけど、あんな子ではないんです。なにか、とてもおかしい勘違いをしてたみたいで……」
勘違い――本当にそうだろうか。本当に、あの子たちは、間違ったことを言ったのだろうか。それは否定したい思いだったけれど、疲弊した少女にはもう、それだけの力も残っていなかった。
アラバスタが、ゆっくりとした手つきで頭巾を亜麻色の頭に据える。三角に折られた頭巾がつむじまでを覆い、両端が耳の後ろに乗せられる、馴染み深い感覚。うなじで頭巾の両端を結び合わせる際、器用に動く指の球体関節が、数本の髪と絡み合った。
それに、改めて思い知る。そう、彼は人形だ。たまたま動き出しただけの、人形で。
人間ではない。神の子ではないのだ。だから彼は優しく、美しく、そして――
きゅ、と紐を締めるような音がして。ああ、もう終わってしまったんだ、と感じると、自然に言葉がこぼれ落ちていた。
まるで、彼を引きとめるかのように。
「……ねぇ、あなたは……平気なの?」
重い所作で、後ろを振り向く。何が、とでもたずねるかのように彼が首を傾げるのと、きっとそれは同時だった。どこか角ばった、人形の動きで。
……人形。冷たい手で、けれど暖かい言葉をくれる彼は、それでもただの人形だ。人に創られた、人の模造物にすぎない。人ではない。
だから――だから。
「理想郷に至れなくても、平気なの……?」
彼らは理想郷へと招かれない。
人形はどこまで突きつめようとも人形だ。偶然動き出しただけの、魂を持たない、人形だ。だから『神の子ではない』。
彼らが理想郷に招かれることはない。神の子だけに門戸を開くそこが、人形を迎え入れるはずがないのだ。動けなくなるほど壊れた時点で、彼らの意識は無に還る。それは少女と似ているようで――、けれど確実に違っていた。
少女は、いつかは理想郷に渡れるから。そう信じているから。
少女は泣きはらした目で、縋るようにアラバスタを見つめる。彼は聖衣の胸元に手をあてて、沈黙を保っていた。いや、それは黙考であるのか。表情の浮かぶことがない彼の心の動きは、非常に察知しにくい。だから少女の心も、いつしか感情の海に溺れてゆく。
作品名:シャングリラの夢:後 作家名:故蝶