シャングリラの夢:後
リーゼッタの住むアパルトメントを出て。ふたりは大通りを目指して歩く。
アラバスタは、あれは誰の家、これは何の店と、建物をあちこち指さしながら言っているが、ほとんどすべてが煉瓦造りの街の中で、その中に際立った差異を見つけだすことは難しい。ウェスト通りの家を制覇し、次は大通り。アラバスタは、いかにも楽しそうに少女の手を引くけれど。
「……リーゼッタ、今日はあまり元気がありませんでした」
「……?」
その中で、彼はふと呟いた。
「いつもは怒ったら枕を投げたりしてくるのに、それもない。それに、あんなこと聞くなんてリーゼッタらしくないんですよ。……だから、きっと」
そこで、少女も彼の言いたいことに気がついた。心なしか沈んでいる彼の声と、俯き加減の美貌が、さらにその推測を補強する。
だから、少女はひとことだけ返す。
「……そう」
そう――そうなのか。
リーゼッタは、きっと――。
「――きゃあああっ!?」
背後から、衝撃。次いで、なにかに飛びかかられる。軽いもののようだったけれど、先の痛みと相まって、少女の小柄な体は容易に煉瓦道へひざをつく。
アラバスタが何かを言っている気がする。何が起こっているか分からない。あまりに唐突のことで、情報処理が追いつかない。けれど、アラバスタの声。それだけはせめて、聞きとろうとして――、
鼓膜を震わせたのは、彼のそれではなかった。
「こいつだ、みんな、こいつだよ!! 母ちゃんが言ってたやつだ!」
「え、でも、アラバスタ兄ちゃんといっしょだよ、ほんと?」
「ほんとだって! こいつ、神父さまだまして泊めてもらってるんだって! 」
「おい、君たち、なにして……っ!」
「アラバスタ兄ちゃんは離れてろよ、危ないぞ! こいつ、こいつ……」
響く、響く。知らない人と知らない人と知っている人の声。
多くは子どものものだ。無邪気さ溢れる気配が今は熱気と悪意を孕み、少女の真上で蠢いている。
背中は重い。何かに踏みつけてられているような。起き上がろうとしても、途端に腕を強く踏まれて叶わない。ちょうど、肺のあたりにも足があるのだろう。ひどく呼吸が、苦しい。
言い争いの声が遠い。意識が薄く霞んでいく。けれど――けれど。
「……ほらっ、バケモノだ!」
勝ち誇ったかのようなその言葉だけは、やけにはっきりと耳に焼きついて――。
「――お前ら、いい加減にしろっ!!」
誰かの、烈火のような激しい怒号。それがアラバスタのものだと気づいたとき、もう、背の重みはなくなっていた。
「大丈夫ですか!? 傷は……、怪我は!?…………あぁあっ!!」
自分を抱き上げる腕。冷たく硬い。ああそうだ、アラバスタは人形だった。球体関節を持つ、優しく、美しく、哀れな、人形――。
「……?」
違和感。どうしてだろう。頭頂部の髪がなびく。風が涼しい。いつもは、そんなことはないのに。いつも、そう、
「あ、ああ……、そうだ大変だ、取り戻さなきゃ……っ!」
頭巾が、あるから――。
「頭巾が……っ!!」
「――え?」
人形の声。何を言っているのだろう、と思った。
取り戻す? そんな、頭巾はいつもここにあるのに。いつも少女の頭に。籠目模様で染め抜かれた、大きな頭巾が。そんな、彼の言い方は、まるで、そう。
まるで、この頭巾がなくなってしまったかのような。
「……」
そろそろと、両手を耳に、否、その先へと伸ばす。そんなはずはない、と信じて。けれど、本能じみた危険信号は止まない、止まらない。教会の鐘の音のように、ごぅんごぅんと、少女の体内で反響する。
嫌だ(うるさい)知りたくない(うるさい)思い知りたくない(うるさい……!)触りたくない(ないなんてありえない)あれがある(これがないと、私は)嫌嫌嫌嫌触りたくないきっとあれがあるみんなに見られてる! 嫌だ見ないであれをあれをあれを―― !(だって母さまがくれたもの平気って言ってたものだから見えないに決まってる! これがあったから私は、ずっとずっとずっと―― !)
手を進める。耳を抜けて、こめかみに。そして、そのわずか後ろ、頭巾の布が覆うべき場所で。
こつん。かたい。硬い、籠目模様の布では決してありえないそれ、そう。
、、、、、、、、、、、、
一対のねじくれた山羊の角に、震える指先が触れて――。
ひゅう、と吸いこむ息が鳴る。かたかたと、手元の震えが、全身に伝播していって、頭が白光に貫かれて、そして。
「――いやああああぁぁあああぁああああぁぁぁぁっ!!」
絶叫だけが、知覚に満ちる。
作品名:シャングリラの夢:後 作家名:故蝶