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シャングリラの夢:後

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「――清貧なれ、子羊たち。神は慎ましき汝らを愛す。自己を戒め、隣人のため、神に祈祷せよ」
「えーっと、つまり、欲張りしないで暮らしてたら神さまが見ててくれるよ、いいことをして、お友達のためにお祈りしようね……ってことだね」
「病める者、貧しき者、苦しむ者、飢える者ども、恐るることはない。汝らには神の導きあらん。汝らは救われよう、神の御手によって」
「病気のひとも、貧乏のひとも、苦しんでるひとも、お腹がすいてるひとも怖がらなくていいよ、神さまが助けてくれるから」
「……神の子なる人間は、一片の欠けなどなく、理想郷へと招かれるゆえに」
「ん、っと、神さまの子どもの人間は……」
「アラバスタおにいちゃん、それくらいリーゼ分かるよ。子どもあつかいしないで!」
「あ、ごめんごめん。リーゼッタはレディだもんね。えらいえらい」
「…………」
 少女は額に手をあて、ふたりに気づかれない程度にため息をつく。どうしてこんなことになっているのか、とでも言いたげに、その表情は戸惑いと呆れに彩られていた。
 目前のベッドには、パジャマを着こんでストールを羽織った幼い少女。今は顔を真っ赤にして、頭を撫でるアラバスタに抗議している。子ども扱いされているのが腹正しいのも、確かにあろうが……、どちらかというと、アラバスタの怖いほどの端整さと家にまで来るほどの律儀さに、幼いながら恋心じみたものを奪われているのだろう。
 リーゼッタ。街の小さい工房の親方、その娘。なんでも気管支に重い異常があるのだとかで、ろくに運動もできないらしい。歳は十だというが、せいぜいがその三分の二ほどにしか見えないほど小作りの身体が痛々しい。けれども今その目には、確かに生気のようなものがあった。
「ほら、叫んじゃまた咳が出るよ。転んで、お姉ちゃんの話を聞いて」
「……はぁい」
 アラバスタがリーゼッタの身体を横たえ、前髪をぽんぽんと撫でる。そして空色の眼で少女を促し、頷いた。
「――汝らに罪咎はない。どんな罪人であろうと、等しく理想郷へ招かれる権利を持つ。なぜなら、……」
 そこで少女は一度つまるも、直後、わずかに瞳を伏せて続ける。
「……なぜなら、贖罪の山羊が、すべてを引き受けるからだ。汝らの罪は彼らが背負う。生まれながらにその罪を負う。汝ら、憐れな山羊を賛美せよ……理想郷を、待ち焦がれよ」
 そこで顔を上げ、アラバスタに視線をやってから、聖典を閉じる。指示された節はここまでだ。これ以上読むものはない。アラバスタはその意を汲み取り、椅子から立ち上がった。
「じゃあね、リーゼッタ。また来週来るから、……?」
 そしてドアの方へきびすを返そうとして、不思議そうな声。表情を変えるはずなどないのに、少女にはなぜだか、彼が目を丸くしているように感じた。
 少女は、アラバスタと、ベッドの上にいるリーゼッタの間をのぞきこむ。そして納得する。
 リーゼッタが、アラバスタの聖衣の裾を、かたくつかんでいた。
「リーゼッタ……? どうしたの?」
「すこし、おはなししていって……おねがい」
 アラバスタの気遣わしげな声に返ってくる、震える直前のような、弱弱しい言葉。それにふたりは一瞬だけ目を合わせて、ほとんど同時に、椅子へと座りなおした。
 それを確認して、リーゼッタは横たわったままふたりに背を向け、そこにある窓の向こうを見やる。
「ねえ……、おにいちゃんたち。あのね、理想郷って、どんなところだと思う……?」
 黒く長い髪で、繊細な線をシーツの上に描いて。
 その表情を見せないままに、幼い子どもはそう、問いかけた。
 ――ちくり、と。一拍ほどの、けれど強い痛みが、胸を刺す。
 理想郷。少女の目指す地にして、この巡礼の最終地点。世界のあらゆる花々が集い、蝶が舞い踊り、光輝の座には神がおわすと言われる世界の果て。そこは素晴らしいと、例えるものもなく美しいと伝えられているけれど。
 少女は、言葉に迷う。いや……少女には、答えられない。
 なぜなら少女は、それが事実かどうかを知らないから。いつそこに至れるか、まだ分からないこの身には。……それは、大部分の人がそうであろうが、けれど。
 少女は――、心の奥底では、そこに至ることが、どうしても――。
「……うん。聞いて、リーゼッタ」
 少女が俯く隣で、アラバスタが語りかける。まるで愛しい人にでも向けるような、優しい声音で。貴公子じみた造形の顔は、人間であれば微笑んでいるだろう――そんな、声で。
「理想郷は、すごいところなんだって。たくさんの花があって、湖がきれいで、蝶々がいっぱい飛んでる。誰もが笑って、生んでくれたことを神さまに感謝する――、そんな場所、なんだって」
「……さみしく、ない?」
「ないない。かっこいい男の子もたくさんいるし、お友達だってすぐできる。リーゼッタは可愛いから、この世界じゃ取り合いになっちゃうけど。大丈夫だよ、理想郷じゃ、誰も争わないんだ。やったね、逆ハーレムだよ」
「……リーゼ、子どもにはきょうみないもん」
 不機嫌そうに返した声は、けれど、わずかに笑っているように感じられた。アラバスタの方を見ることはない。それ以上の言葉もない。それでもリーゼッタは、確かに。
 アラバスタに「ありがとう」と告げていた。
「……もういいよ、おにいちゃん、おねえちゃん。ごめんね、もう帰っていいよ」
 次には、今の話がなかったかのように言う。けれども顔は向けない。少女とアラバスタは共に席を立ち、ためらいつつも、部屋のドアへと向かう。
 先にドアを出たのはアラバスタで。一歩遅れて少女がドアをくぐり、扉を閉めようとノブに手を伸ばす。けれど。
「おねえちゃん」
 そう言う声が、聞こえたから。
 少女は部屋をのぞきこむ。幻聴かもしれないということは承知で。だけども、それは幻影などでは、決してなく。幼い少女は、リーゼッタは、もう窓に背を向けて、こちらにその可愛らしい顔を見せてくれて。
 ――笑っていた。
「……アラバスタおにいちゃんを、よろしくね」
 目を細めて、本当に、本当に。
 慈しむようにして――、笑っていた。

作品名:シャングリラの夢:後 作家名:故蝶