シャングリラの夢:前
一晩徹夜したことは、目の腫れ具合から分かってしまったらしい。もう一度頭を下げ、少女は神父と連れ添って、祭壇の前で向かい合う。
一転、神父の柔和な雰囲気はなりを潜め、ただ静かに少女を見据える。
「……巡礼者。理想郷を目指す者。己では叶わぬ領域に歩み寄ろうとする者よ」
そして口から流れ出す、巡礼者を迎える儀式――『迎杯の儀』の聖句。一字一句違わず暗記しているということは、この時のためにわざわざ覚えていたのだろう。そこからも、彼の性格は容易にわかる、が。
……少なくとも、今の彼が行うべき役は、努力家の神父ではない。
「神に恭順の意志を、何より理想郷への資格を希うならば、ここにその証を立てよ」
そして傍らから取り出すのは、一見底の浅いワイングラスにも見える金色の杯と――、わずかな光を集めて反射する白刃。
ナイフ。柄に精緻な彫刻を刻んだ、儀式用のナイフ。だがそれは、切れ味が一般のものより劣ることを、必ずしも意味しない。
事実――、
「……っ!」
少女はナイフを恭しく手に取り、自分の手首を――さらに言うと動脈を狙って、切りつけた。
鋭い激痛に、一瞬頭が白くなる。神経に刃が触れ、ひと呼吸ごとに身は震える。かちかちと、肉の間で動く刃と口腔で鳴く歯がたまらなくうるさくて、だけれど、それはどうでもよくて。
痛みによって霧がかかる意識で、少女はナイフを神父の手の中に戻し、杯をつかみ取る。そして、流れ出る血を、落ちるその一滴から、杯へと納めていく。
ぽつり、ぽつり。二滴。
ぽつり、ぽつり。四滴。
ぽつり、ぽつり、ぽつぽつり。……これで、七滴だ。
かたかたと震える手で、突き返すようにして、神父へと杯を差しだす。神父はためらいなくそれを受けとり、朗々たる声で、礼拝堂中に聖句の最後を響かせた。
「確かに受けとった、これが汝が忠誠の証! 汝に光あれ、光あれ! 我は汝を讃えよう、巡礼を是としよう! 七滴の血、これを神が飲み干すその時まで!」
……そして、厳粛な沈黙が、すべてを支配する。神父は小瓶の中身――少量の水を杯に注ぎ、祭壇へそれを捧げ、すう、と息を吐く。少女は歯を食いしばって声を出さずにいようとしていたが、神父が彼女に慌てたような表情を向けてきたときには、痛みはもうほとんど引いていた。
「……だ、大丈夫……な、はずないですよね? ああ、っと、アラバスタ! 包帯を持ってきてくださーい!」
「いえ、大丈夫、です……。お気になさらず」
実際、血はもう止まっている。翌日には、跡形もなく消えているだろう。
それよりも……、
「アラバスタっていうんですね、彼」
虚をつかれたように、『彼』の方を向いていた神父が振り返る。『彼』――アラバスタも、その声でこちらを向いた。答えるのは、落ちつきを取り戻したらしい神父の声。
「……ええ。彼の作り主がつけました。善い名でしょう?」
「はい。……ぴったりです」
確かに、これ以上『彼』に似合う名もない。雪花石膏(アラバスタ)。大理石の一種。古代の王に捧げられた供物にも用いられたもの。高貴なる石の名前だ。
少女の言葉に神父は「そうですね」と微笑み、『彼』は無言で一礼する。表情は変えない。いや、変えられない。もとより、そういう仕様ではないのだろう。ゆえに、その内心を窺い知ることはできず。少女も、それ以上どう返せばよいのか、分からなかった。
けれど、次は神父が声を発す。
「では、アラバスタ。彼女を部屋にご案内してください。……時間をとらせて申し訳ありませんでした、ゆっくりお休みになってくださいね」
前半は『彼』に、後半は少女に。分厚い聖典を抱え、その長身を折る。そして、彼は礼拝堂の外へと出て行った。
神父の背中が見えなくなって直後、『彼』の硬い手が、少女の柔い手に触れる。
「では、お部屋に案内しますね。また昼ごろになれば起こしますので、どうか心配なさらないでください」
そう言って、祭壇脇のドアを開ける。潜ると、続くのは多少狭くもよく手入れされた廊下。左右の壁には交互に扉が並び、それが奥まで各四つほど。どれかは厨房などであろうから、実質、使える部屋は六つほどか。最奥は短いL字型になっており、光がもれてきていることから、窓、あるいは裏口らしきものがあるのだろうと予想がついた。
『彼』はドアをふたつほど素通りし、右側の、手前から二番目の扉の前で立ち止まる。手袋をはきなおした手でノブを回し、少女を部屋へと迎え入れた。
「どうぞ。掃除はしてますので、お気になさらないでください。布団も、ちょうど昨日干したばかりなんですよ」
脇へ退いて、少女を中へと促す。言葉通り、日常的に掃除の手が届いているらしく、そこに荒廃のような色はなかった。むしろ清潔とさえ思え、即座に好感を覚える。
決して広くはないが、極端に狭いとも言えない。部屋にあるのは角にふたつ置かれたベッドと、その隣にある棚、そして中央の丸テーブルと椅子だけ。安い宿屋のような内装だが、もともと巡礼者は多くのものを持ち歩かない、これで十分とすら言える。
窓から見える景色には中庭があり、その草と花とが眺められた。だいぶ高く昇ってきた太陽が光を降らし、この部屋にも明るさを与える。……が、眠るには邪魔かもしれない。カーテンを閉めておこうか。
「『勤め』の内容は、起きられてからお教えしますけど、他の教会とそう差はないかと思います。まあ、神父さまはあのような気性のひとですし、粗末に扱われはしないはずですよ」
では、よい眠りを。そう会釈して去ってゆく背に、ありがとうとだけ伝える。
少女一人しかいなくなってしまった部屋の中。カーテンを閉め、荷物を下ろし、ベッドへと潜りこむ。久しぶりのマットレスの感触が、ひどく柔らかい。
身を丸める。布団に染みこんだ陽の匂いを嗅ぎながら、アンバーの目を閉じる。……ああ、気持ちがいい。これならすぐに眠りに落ちられる。疲れた体は休息を欲し、泥のような睡魔の中へと、急速に吸いこまれてゆく。
けれど。けれど、これだけは。
布団の内。包まる内で。少女は誰に言うでもなく、囁く。
「母さま。……母さま」
父さま、兄さま。爺さま、婆さま。近所の二ーナ、フィリップ、アレクセリフ。みんな、みんな。
届かないことは分かっている、聞こえないことは分かっている。だから、これはきっと自問。だけれども、答えを出せないであろうことも、知っていた。
それでも、問う。
「私は、いつになれば――、」
頭巾を握り、さらに固くまぶたを閉じる。まるで胎児のように身体を丸め、掠れる声で。
悲哀、嘆願、望み、苦悩、それとも、ささやかな喜び? 否――、否。
そう、そこに宿るは、たったひとつの。
「理想郷へと、至れるのでしょうか……?」
――叶うことなき、郷愁(ノスタルジア)――。
作品名:シャングリラの夢:前 作家名:故蝶