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シャングリラの夢:前

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 黒影のひと。光がにじむ輪郭は、けれど背丈はごまかさない。おそらく、少女よりは頭一つは高いだろう。細い線のために男か女かは知れないが、老成した雰囲気は感じない。むしろ、あたかも透明であるかのような、徹底した無存在がそこにはあった。影が薄いというのとは違う、そう、まるで人形であるかのような、希薄な人間性。
 彼、あるいは彼女が、こちらへと歩んでくる。逆光はその影から退き、入れ替わるようにして、ステンドグラスの窓がかろうじての光源となる。
 そして、その姿が、露わとなって。
「……すみません、礼拝の邪魔をしましたか? すぐ出ていきますから、どうかご容赦を」
 声と共に、頭を下げられる。男とも女ともつかない、中性的な声音で。
 けれど初めに少女の瞳が認めたのは、その袖からのぞく細い手首の、球体関節だった。
 ――球が腕とてのひらの間に仕込まれた関節。それは指も同様だった。外した手袋を握る手は、その指を大気に触れさせる。白い手袋をつかむそれは、惜しげもなく関節部の歪な丸みをさらしていた。
 少女は頭を上げ、相手の顔を確かめる。そして、彼、あるいは彼女が何かを確信した。
 視界が中央に据えるのは、整った形の顔。いや、整った、どころではない。空色の瞳はサファイアを純粋な子どものために仕立て直したがごとくに汚れを持たず、肌は深窓の令嬢を彷彿とさせるほど白い。短い金の髪はさらさらと一本一本を風に揺らし、暗いここでも光を宿す。薄紅の唇は、まるで情欲をかき乱そうとするかのように艶があり。
 それは、人間が持てる美しさの境地を超えていた。ひとつの完璧がそこにあった。巡礼者の少女が宗教画ならば、相手はきっと幻想画、あるいは理想像。おとぎ話の中にだけしかいないような、儚い美。
 ああ、ああ。当然か。なぜならこれは、人間ではない。
 ――自律人形(オートマタ)。
 少女が心の内でそう判断したと同時に、人形がもう一度口を開く。
「見ないお顔です。新しい住人さん……、いえ、恰好から見ると、巡礼者さんでしょうか?」
 いや、口は開いていない。彼らは人形。口はまがいもので、開けない。声だけが、そこから響く。
 彼らは人形だ。心を宿した人形だ。職人も意図せず偶発的に生まれる、ひとりでに動く人形。どういう原理かは、誰も知らない。けれど、皆彼らを受け入れる。
 稀ではあるが――、確かにいる存在。
「……自律人形は、はじめてでしょうか?」
 少女の黙りこくった様子を見て、人形はそう解釈したらしい。首を傾げ、問う。
 少女はそれで、はっ、となって。小さくかぶりを振って、答える。
「……いえ、いいえ。はじめてじゃない、これまで二十……三十は会った。だけど、あなたみたいに、その」
 一瞬、なんというべきか、迷って。
「『大きい』のは……、はじめて。ずっと、小さな女の子とか、陶器のウサギとか、そんなのばっかりだったから。だから、驚いたの」
 ……嘘ではない。確かに、ここまで背が高いものは初めて見た。本物の人間のような人形はそう多く見ない。そのなかで自律人形となると、本当に、どれだけいるのか。
 けれど少女が言いかけて飲みこんだのは、真っ先に感じたのは、そんなことではなくて。
 ――きれい。
   すごく、すごく。きれいだ。
 白磁の肌。絵本に描かれる貴族のように隙のない金髪碧眼。鼻筋はすっと通っており、指先ですら限りなく優美で。誰かの理想の少年少女を具現化させたのではと邪推するほど、そこには欠点も無駄もなかった。
 ぽう、と少女はまた人形を見つめる。と、そこで彼女は気づいた。この人形が来ているのは、聖衣(カソック)だ。黒い聖衣。白い肌と、鮮烈ながらも目に心地いい対比をなして、その美しさに一花添える。
 シスター服ではない。それで『彼』の性別を推しはかるより先に、自らの目的と結びついたそちらを思い出す方が、彼女にとっては当然のことだった。
「もしかして、あなた……、この教会のひと?」
 こくり、と彼は肯う。そして彼も、また質問を声にする。
「それで……あなたは新住人さんでしょうか、巡礼者さんでしょうか? 神父様を呼びますけど、それを先に聞いておかないと、あの人が困るんで」
「え、あ……、ああ、ええ。巡礼者よ。理想郷に至るため、ここにやってきたわ。しばらく、よろしく」
「はい、よろしくお願いします」
 では、とそれだけ言って。会釈し、彼は祭壇脇の、目だたないドアの内へと消える。おそらく、あれが神父、それからあの彼の住まいに繋がる扉だろう。扉は外にもあるだろうが、神父が礼拝堂の入口からやってくるのは、あまり恰好がつかない。
 とりあえず、と最前列の椅子のひとつに座る。軽く十人近くは腰かけられそうな長椅子は、ひとりの少女にはいささか持てあます。ひとまずザックを下ろし、外套を脱いだ。銀杏色と蜜柑色と下地の白が合わさった服は、どこか活動的な印象を与える。かすかに怜悧な色のある顔つきと比べると、その中の少女性が強調される服装だった。
 その裾がかかるひざに、目を落として。頭巾に、手をやって。少女は、誰もいない礼拝堂で、ぽつり呟く。
「母さま……」
 小さく反響する、言葉。呼びかけではない、けれど独白ではない、曖昧な囁き。
 口ずさむように、吟ずるように。思わず口をついてでた、そんな調子で。けれど。
「私は、私は」
 そこには、あの祈りの時にもなかったものが、確かに含まれていて。
「いつになれば――」
 ドアを開く音が、すぐそこで。少女は跳ねるように顔を上げ、ドアを見る。
 そこには『彼』と、もうひとり。『彼』とそろいの聖衣を身につけた、長細い人影。それは、『彼』より頭ひとつ半ほどの差をおいて、その背丈に決着をつけていた。
 少女は小柄だ。とはいえ、彼女から頭ひとつぶん大きい『彼』は、少年の平均程度の身長はある。そしてそれより頭ひとつ半抜きんでているのだから……、長身などというレベルで片づく体格ではない。
 にょき、という擬音が似合いそうなその極長男は少女の姿を認めると、腰を折ってにこやかに笑む。
「はじめまして、巡礼者のお嬢さん。私は――まあ、彼から聞いているとは思うのですが――、ここの神父です。若輩者ですが、どうぞよろしく」
 髪は白髪と見まごうほどの、けれども老いなどは全く含まない、見事な銀。瞳はヘーゼル、ダークグリーンじみた色。その細い身体は、骨が浮き上がっているのでは、という危惧すら抱かせたが、自分の手を包んだ手は存外しっかりとして、暖かい。
 若輩者と自称する通り、どう見ても三十五は超えていないだろう。けれどそこには、確かに神父たる『格』があるように思えた。
「お恥ずかしい話、私も、これまで巡礼者さんを迎えたことは、片手で足りてしまう数でして……。不手際がありましたら、なんでもおっしゃってください」
「……はい。ありがとうございます」
 誠実。敬虔。なるほど、やはり住む家の外観からでも、家主の人となりは把握できるか。自分の判断能力もなかなか捨てたものじゃない、と少女は思う。
「では、お疲れのところ申し訳ありませんが……。まず迎杯の儀を終わらせておきましょうか。その後で、ひとまずお休みになられてください」
作品名:シャングリラの夢:前 作家名:故蝶