シャングリラの夢:前
・ ・ ・ ・ ・
ひとつの昼とひとつの夜をこえて。朝焼けがにじむころに、少女は街の門へと到着した。
少し、いやかなり、眠い。身を隠せるところが見当たらないのと、早く街へと急く気持ちから、結局昨夜は寝袋にくるまれなかった。これにももう慣れたが、睡魔は慣れとは関係なく身体を蝕む。視界の端が白くぼやけ、頭が重い。
けれど街の景観は、その霞みを気にさせないほどには少女の目を引いた。
門を抜ければ並ぶ、煉瓦造りの街路と家と。あの荒れ野の赤土は『錆びたような』とすら思えたのに、今広がるこれは、ただ人の営みの証として目に映る。それは、ちらほらと窓に見える、花を植えた鉢などがあるからか。それとも、早起きの子どもたちがぱたぱたと楽しそうに走っているからか。
通りの奥に見えるのは橋だろう。となれば、本当にここには川が通っているのだ。地平線に隠れてしまいそうなほど向こうには、少女の目前にあるものと同じ門があり。どうやらこの街は、橋と二方向への門を同一線上に作っており、それを大通りとしているらしい。
ようやく人心地がつき、ふう、と一息漏らす。だが、まだ休めはしない。ここにきた目的に、未だ触れすらしていない。目の端をこすりながら、少女は門をくぐる。
――さて、教会はどこだろう。少女は回転が鈍くなりつつある頭で、それでもきょろきょろとあたりを見回す。
見えるのは、煉瓦造りの家、家、家。基本的に面積自体は狭いのだろう、宿屋、あるいは下宿屋のような、二、三階構造の家が散見される。まだ朝が早いからか、先ほど目にした子どもたち以外に人の姿は見えなかった。
なれば、人に聞くという手は使えない。あと数時間もすれば可能だろうが、それを待つ時間を教会探しに費やした方が効率的だ。休む理由は、やはりない。
直進し、馬車が軽くすれ違えそうなほど大きな橋に着くと、その向こう側は商業区であるらしいことが分かった。まだ開いてはいないものの、酒場の特徴的な扉、壁から吊り下げられ、建物の前に据えられた幾十という看板が、それを証明している。とすると、今いた川のこちら側――南側は、居住区といったところか。教会があるならば、おそらくそっちだ。少女は清らかなる水の流れを石橋越しに感じ、それに名残惜しさを覚えながらも、軽い動作で踵を返す。
大通りには戻らず、適当な脇道に入る。脇とはいっても、大通りと相対的に見た判断であって、路地裏とまではいかない道だ。教会は誰にでも門戸を開く。娼館や闇商じゃあるまいし、誰も来れないような場所に構えることはありえない。
清涼な朝の空気を吸い、昇りはじめる太陽の光を感じながら、靴は煉瓦道に小気味いい音を響かせる。くすんだ蜜柑色のスカートが外套の端からのぞき、澄んだ風を受けた。
川沿いに進むと、ふたつみっつ、大通りには劣るものの、それなりの通りが見つかった。けれど、そこにも教会はない。それにわずか肩を落とし、また一段頭を侵す睡魔に、頬を叩いて抵抗する。教会はここにはないのだろうか、と、ほんの少しの不安を身に抱え。
けれど――、大きな川の端の端。川が街に入る地点の隣、そして街の終わりを示す周壁に沿うようにして。
古色然とした教会が、広々とした面積を確保して建っていた。
「……」
……居住区の隅。川を挟んで商業区と隣接しているといえど、目立つ位置にあるとは言い難い。もちろん路地裏というほどでもないし、そもそも目立っていたら目立っていたで、教会としてはなにか間違っているとしか言いようがないのだが……。
だが。ここと真逆の隅に住む住人には嫌がらせとしか思えないであろう位置であることも、はっきりと断言できた。
「……まあ、いいか」
独り言じみたことを呟く。実際、教会の配置にいちいち口を出すほど、自分は偉い立場ではない。そうだ、それに、この教会の外観は好きだ。
この街にある大部分の家と違って、ここは煉瓦で作られていない。ところどころに傷や汚れがあるものの美しい白亜の姿は、それだけで聖なる家だと一目で知れる。
数段の石段の先の両開きの扉は開け放されて、その奥には礼拝堂。信者への歓迎の意だろう。こんなに朝早くから開けているあたりに、神父の誠実さが垣間見えた気がする。
そこが教会の敷地の中で、最も川から遠い。礼拝堂から枝分かれしたように続く壁は、おそらく神父たちの生活区のものだ。それは小さな中庭と共に川の方へと向かい、ある柵によってぷっつりと途切れていた。
黒い柵、小さな柵。それに囲まれた区域は、正真正銘、川と隣り合っている。はじめは、教会の敷地と断言できなかったものの。その柵の内を把握し、ああ、と納得する。
そこは、墓地だった。聖印を刻まれた墓石がいくつもいくつも並ぶ、墓場。
教会の中庭もそうだが、この墓地にも、青々とした芝生が生えている。よく手入れされているあたり、やはり神父、あるいは神官が働き者なのだろう。ちらほらと、可憐な野花すら目に入る。
けれど、墓石。少女は焦点を合わせているそれに、わずか、胸が締めつけられて。振り切るように、墓場から目をそむける。そして、教会へと歩む。
石段を、ゆっくりと昇りつめ。少女は礼拝堂に足を踏み入れる。透明な太陽の光が一気に陰り、天井の高く薄暗い空間の中、ステンドグラスに彩られた光が、床に投影された。
両手側に並ぶ信者椅子。今はそこには誰もおらず、祭壇へと続く道には少女ひとり。少女は決闘に赴く騎士のよう、気高き足取りで、薄い絨毯が敷かれた道を一歩ずつ歩む。
けれど、祭壇から一歩置いて。少女は指で剣印を形づくり、胸元に聖印を切る。そして目を閉じ膝をつき、指を祈りの形に組んだ。
ひどく静謐な空気が、礼拝堂を包む。それは、まるで宗教画のようだった。
少女が汚れた外套を纏い、亜麻色の髪を垂れて、祭壇の前にひざまずき祈っている。そこに正面のステンドグラスの光が注ぎ、少女を慈しむように照らしだす。さらにつけ加えると、巡礼者の少女は可憐で美しく、彼女が瞳を閉じ、なにかを一心に祈る姿は、実に絵画じみていた。
まだ子どもとも呼べそうな外見であるのに。そこに漂うのは、ある種の偏執さえ抱く懇望。余人には踏み入れそうもないほど、深いなにか。
少女は祈る。巡礼地がそのひとつで。指を絡ませ、面を伏せて。静寂に心を埋めて――祈る。
――聖なるかな、我らが神。
聖なるかな、我らが神。
願わくば、この身に祝福を。
叶うなら、この身に憐みを。
いつの日か、この身にも、
「――理想郷の、福音を」
そう自ら決めた聖句を唱え、途端。
かたん。背後で音。糸を張っていたような集中はそれだけで途切れ、少女は振り向く。
礼拝堂は暗い。差しこむのはステンドグラス越しの、明かりとも呼べない日光だけ。だから、そう。人。礼拝堂の入口に立ったその人が、逆光ではっきりと捉えられない。
作品名:シャングリラの夢:前 作家名:故蝶