シャングリラの夢:前
荒野。赤銅色の地が続く、荒れ野原。
風が、舞った。
「……」
少女は、無言で頭巾を抑える。暴力的な風にはたはたとその裾が踊り、亜麻色の髪が嬲られる。
……まるで北風と太陽の寓話のよう。少女は、澄んだアンバーの瞳の奥で、そう思う。
少女は、ただひとり荒野を歩いていた。薄く小さな背には、そのほとんどを覆うかというほどの粗末なザック。ズタ袋と形容して差し支えないほどに、それは薄汚れている。けれど破れ目、裂け目は丁寧に繕われており、その中身がこぼれ落ちそうな様子はない。
軽く体を揺すり、それを背負いなおして。少女は、曇天のもと、歩みを再開させる。
まず感じるのは、足元の、枯れ草が潰れる感触。足を進めるたびに靴底は砂礫を噛み、凹凸のある地面が体をよろめかせる。……少女はただでさえ小柄であったが、この一面の荒野では、なおさらにその姿は頼りない。傍から見ていれば、誰であれ思わず手を貸してしまいそうなほどに。
もっとも、少女の視認できる範囲には、人影などなかったのだが。
歩く。少女は歩く。わずか収まってきた風に、けれど籠目模様の頭巾を固く抑えて。羽織る外套で、風に乗って向かってくる砂粒を受け流して。
緑野だとか森だとか、そういう牧歌的なものがある地域は、とうの前に通過した。しばらくは、この荒廃したがごとき場所で過ごさねばならないだろう。
……そんなことは、三日も前に分かっていたはずなのだが。それでもやはり心の片隅は、早くここではないどこかへと訴える。荒野は寂しい。ひとりでならあまりにも。早く街へと、背中の方から急かさせる。
けれど、それは耐えるべき感情だった。理解しているし、実際、これには何度となく圧し掛かってこられ、慣れてもいる。だから、少女は表情ひとつ変えずに、寂寥を押しつぶす。
仕方がないのだ。これは義務。海を往き山を往き森を往き、そして今こうして荒野を渡っている、自分の。
自分は――巡礼者なのだから。
「……、」
小型の羅針盤を、外套の内から取り出す。幼いころに近所の青年から譲り受けたものだ。あの頃はただただ遊びにばかり使っていたが、今では真面目に必需品となっている。
北西は、少女が進むその方角。進路から外れていないことに安堵し、懐へと羅針盤を戻す。
前の町で教えてもらったことと、地図とを吟味して考えると、早ければ今日の夜、遅くとも明日の昼には街へと着けよう。目的の街へ。教会のある街へ。
しかし、本当なのだろうか。その街は、荒野のただ中にあるにもかかわらず、川は流れ、作物は実り、活気溢れているなどと。
少女は周囲へ首をめぐらせる。赤銅色の地面。同色の石粒と、その隙間から生える枯れ草。空は見渡す限りに煙が立ちこめているかのように雲の群れに支配され、地上の果てには地平線が鎮座している。……この景色の延長線上にそんな場所があるなどと、にわかには信じがたい。
おそらくは、荒野の終わり近くにあるがゆえにできている芸当なのだろうが。それでも、この一面錆びたような世界の中に活気とは、なんとも不似合いだと思わざるを得なかった。
だが、もし真実そうだとするならば、少女にとっては幸運以外の何物でもない。
「……まだかな」
小さく、呟く。小柄な体躯に違わない、鈴の音のような声で。
街。人。そして教会。それらすべて、少女にとっては、目指すべき地のキーワードだ。
少女は歩む。やっと頭巾から手を離し、石ころに躓きながらも、足を進める。
早く。早く行かなくてはならないのだ。早く行かなくては、私は、皆は。
……はやる心を押し留め、少女はゆっくりと、けれど確実に近づいていく。行くべき場所が、そのひとつに。
――巡礼地へ。少女は、向かう。
作品名:シャングリラの夢:前 作家名:故蝶