ファック・トゥー・ザ・フューチャー
椅子のない部屋。普段ソファー代わりに使っているベッドを早乙女洋子と黄色いコートに独占された矢吹は、自分の上着をカーテンレールのハンガーに掛け、そのまま立ち尽くした。目の端に映る早乙女洋子は、つまらなそうに部屋を睥睨している。壁に貼ったアントニオ猪木のポスターを見られるのが、堪らなく恥ずかしい。
「あんたさぁ」
「え?」
「何でこんな貧乏してるわけ?」
揉み消した煙草のフィルターに、べったりと透明なグロスが付いている。
「余計なお世話だよ。ちっちゃい会社のサラリーマンなんだから。今どき普通こんなもんだよ」
「はぁ? 競馬とかやればいいじゃん。株とか」
「そんなの余計貧乏になるだけだよ」
「そういうのは分かんないわけ?」
「分かんないって何が?」
「血、付いてるよ、ここ」
自分の右拳を左手の人差し指でトントンと叩く。その爪には黄色にオレンジのドットを描いたネイルアートが施され、付け根にはささくれが三つ出来ている。黒いニットは躰にフィットしていて、大きめの胸の形は矯正下着によるものか天然のものか判別し難い。
「あ、ちょっと転んだから」
「ふーん。まあいいけどそんなのどうでも。今見たでしょ」
「え? 見てないよ。何を?」
「まあいいけど別に。それでどうなの」
「え?」
「どうなの、私」
「え、ああ、綺麗になったよ」
「はぁ? 馬鹿じゃない。何言ってんの?」
「ごめん」
「ふんっ、ほんと大人になったのね」
洋子はまた新しい煙草を指に挟み、それに釣られてフィルターを噛んだ矢吹とほぼ同時に火を点けた。煙を吐き出す溜息に似た音が二つ同時に響き、閉め切った部屋の空気を更に汚した。
缶ジュースの空き缶を灰皿代わりにして立ったままの矢吹は、途方に暮れ、絨毯に直接座り込んだ。頭頂部に痛いほど視線を感じる。洋子の吐き下ろした煙が、絨毯の上を這って広がっていく。矢吹は自分が犬になった気がした。
メールの着信音。尻のポケットを探り携帯電話を開くと、思った通り、また広告メールだった。
「メールなんかやってんだ」
「迷惑メールだよ。最近多くて」
「ふーん」
早乙女洋子はそう言って煙草を消し、鼻の穴から煙混じりの溜息を吐いた。立て続けに三本目の煙草に火を点け、爪の先で耳の裏を掻きながら、また矢吹を見据える。
矢吹は俯き、言葉を探した。相手が用件を切り出さない限り、断りようが無い。用件を聞いても、知っている筈だと言われる。話し掛ければお喋りだと言われ、黙っていても睨まれる。学校の中の幼稚な人間関係が嫌いだった矢吹にとっては、久し振りに会う同級生に語るような気の利いた思い出話も無い。こそこそと煙草に火を点け、ライターをローテーブルに置く動作の延長でリモコンを掴み、テレビを点けた。初詣の混雑振りを伝えるニュース。画面が変わって冬の海で寒稽古する空手着の子供。部屋が急に賑やかになり、不自然では無く視点を置く場所も確保出来た。
矢吹は早乙女洋子の会話を待つ事に決めた。
北海道の味がする味噌ラーメン。六人乗れるコンパクトカー。弱酸性で肌に優しいボディソープ。くだらないコマーシャルをじっと観た。味噌ラーメンのコマーシャルは、矢吹の会社で編集した物で、編集費は九十五万円だった。たった五万円を値引く為に、馬鹿らしい電話を三度も受けた。
「ねえ…」
煩いCMが終わった瞬間。
「ねえ…。わたし、このまま、駄目なんでしょ?」
日本一の年寄りが座布団に座って笑っている映像をぼんやりと観ながら、遂に早乙女洋子が呟いた。
「小学校の卒業文集に書いてたじゃん。誰も有名になれないって。頑張っても、意味ないんでしょ。どうなの?」
「え?」
矢吹は振り返り、驚きに息を止めた。
「あんた分かってんでしょ?」
睨め付ける洋子の目の下に、涙が溜まって揺れている。
「私、これから、どうなるのよお」
泣いている。突然。何の連絡も無く、正月の夜にやって来た同級生。学校のアイドル。煙草。マニキュア。涙。これから。卒業文集。卒業文集? これから?
分かった。
やっと分かった。
思い出した。誰も有名になれない。あの卒業文集。この女は、もしかして、本当にアイドル歌手になろうとして、三十過ぎた今でもまだ芸能人を目指しているんじゃないだろうか。それで正月にたまたま文集を読み返して、人生相談に来たって事か。頑張っても意味ない? 有名になれない? 間違いない。きっとそうだ。馬鹿じゃねえの。本気かよ。己を知れよ。
「そっか。それで来たのか」
「…」
「泣いてんの?」
「泣いちゃ悪い?」
立場が逆転した。犬は早乙女洋子の方だ。ルービックキューブを解いた時のカチャリと鳴る音。それに似た音が頭の中で響いた気がする。テレビの中で天皇一家が手を振っている。天皇陛下、明けましておめでとうございます。僕は今日、セックスをします。
「まあ、無理だろうね」
「え?」
矢吹は嗜虐的に小さく嗤い、力の無くなった洋子の目をじっと見た。その泣き顔にはまるで(何とかなりませんか。何とかして下さい。お願いします)と書いてあるようだ。頭の悪い女の感情は、分かり易く顔に出る。馬鹿丸出し。何とか出来る訳なんか無いのに。
「今までやって駄目なんだからいい加減諦めないと」
「無理かなあ。何とかならないかな」
「俺はテレビ局のプロデューサーでも天皇でもないんだぜ。そんな事俺に言ったってどうにもなんないよ。俺達もう三十だぜ。もうちょっと大人になった方がいいよ」
「うん…」
「泣くなよ…」
「うん…」
好い事ばかり言う占い師に客は付かない、と本で読んだ事がある。懊悩する女は皆、新宿の母や池袋の母や渋谷の母に優しく叱られ諭されたいのだ。追い込んで、どさくさ紛れに押し倒してやる。
矢吹は洋子のコートをどけながらさり気なくベッドに移動し、洋子の横に座った。二人の間の灰皿に灰を落とし、空いた手で女の前髪をそっと払った。
「泣くなって…」
「ごめん…」
少しだけ力を入れて肩を揺さぶり、
「泣くなって…」
そのまま優しく肩を抱いた。
「うん…」
自分の煙草を揉み消し、待つ。
「ごめんね、今日は、お正月なのに突然来ちゃって…」
「いいよ。気にすんなよ」
「なんか…、何て言っていいのか分かんないけど…ありがとね…」
「いいよ、それより落ちそうだよ、灰」
「あっ、ごめっ」
洋子が煙草を消すのをきっかけに、唇に吸い付いた。
尖った八重歯に舌先が触れる。ニットの上から鷲掴みにした乳房の感触は、本物だ。
「泣くなって…」
「うん…あ…」
二千一年。
元旦。
学芸会で主役を張った女の上で、木の役だった男が腰を突き上げた。
※
裸の女が横に寝ている状態で喫う煙草ほど旨い物は無い。しかも、その女は同級生で、当時は見向きもされなかった学校のアイドル。テレビの横に置いた目覚まし時計を見ると、日付が変わっている。結果オーライ。最高の正月だった。本物の元アイドルと寝た気分。少女だった女の股間には十五年後の今、びっしりと毛が生えている。息を吸い込みながら発声する独特の喘ぎ方や、まるで創作活動に息詰まった時の作曲家の様な、自分の髪を掻き毟りながら悶えのたうつ特殊な性癖に一人の女の歴史を感じた。
「ねえ」
作品名:ファック・トゥー・ザ・フューチャー 作家名:新宿鮭