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ファック・トゥー・ザ・フューチャー

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 後部ガラスを振り返る。付けられている気配は無さそうだ。
「レシートは要りますか?」
「あ、いいです」
 元旦の日付の領収書が経費で落とせる筈もない。新宿から一駅分のタクシー代八百五十円を支払い、矢吹丈一は背中を丸めて人波に紛れ込んだ。財布の金がまた少し減った。
 思えば、こうなる事を分かっていた気がする。エリートサラリーマンにも実業家にも有名人にも、なれる気がしなかった。女にもてない事も分かっていたから流行を追って無駄に高い服を買う事も無かった。無駄な努力を止めて効率良く生きようとした結果、何者にもなれない。明らかに不向きな営業部に配属されたものの、転属願を出す積極性も無く、周りに流される様に軟派になった。これから先は、分からない。これから先は、多分何も無い。
 二十一世紀最初の正月。電車はかなり空いていた。

 缶コーヒーを飲みながら、アパートに続く坂道を上る。この辺りは犬を飼う人間が多すぎる。アスファルトの染みから犬の小便の臭いがする。動物を飼いたいと思った事は今まで一度も無い。
 煙草を取り出そうとポケットに突っ込んだ手に痛みを感じた。街灯に照らしてみるとまだ少し血が滲み出している。
「おいっ待て待て待て」
 背後からの声に身を固くして振り返った。
 涎を垂らした頭の悪そうなゴールデンレトリバーを二匹も連れた頭の悪そうな少年が引きずられるように近付いて来る。
「また犬かよ」
 犬の吐き出す息が白い。ゴールデンレトリバーを二匹も飼えるような家は裕福なのか少年は肥満児の一歩手前だ。
 尻のポケットが震えた。バイブレーションと同時に鳴ったメールの着信音に矢吹を追い越した犬と少年が振り返る。少しだけ期待して開いたメールは、予想通り広告メールだった。
 飲み終えた缶コーヒーを放置自転車の籠に捨てた。二階建ての木造アパート。集合ポストを開くと年賀状が二通入っていた。ヘアサロンとレンタルビデオ屋。レンタルビデオ屋の年賀状には正月三が日中のレンタル一本無料特典が付いていた。裸の女が頭に浮かんだ。四対三に四角く切り取られたビジョンは典型的なアダルトビデオの映像だ。二十歳を越えた頃からだろうか。ビデオを観ていない時でも、自慰の時に思い浮かべるビジョンにはいつも四角い枠がある気がする。風俗嬢では無い普通の女と普通にセックスがしたい。太った女でも醜い女でももう構わない。今年こそは恋人を作って人並みのクリスマスや正月を過ごしたい。三十歳。今年こそは。
「がんばろ」
 階段を上りながらポケットの鍵を探ると、また拳が痛んだ。暗い気持ちと淫猥なビジョンと今年の目標を同時に抱きながらドアの前で顔を上げると、何故か、そこに、目の前に、太った女でも醜女でもない女が、立っていた。



「久しぶり。って言うか明けましておめでとう」
 歯並びの悪い女が八十年代のアイドル歌手の様な作り笑顔でこっちを見ている。人並みか、それ以上の美人。袖の長いオーバーサイズの黄色いピーコートにコーデュロイの黒いパンツ。鎖骨あたりまで伸びたストレートの髪はシャギーが入っていて、染めていない黒髪は太く艶がある。眉毛を細く整えて誤魔化しているが、実際はかなり毛深そうだ。毛深い女は、きっと強欲だ。そんな女が、何故。
「あ、すいません」
 何を言って良いのか分からず考えている内に、謝っていた。
「はぁ?」
 女の顔から笑みが消えた。面を付け替えたように、怒りが現れた。
「いや、あの、いいです」
 何かを売り付けられるか、或いは宗教の勧誘か、女の格好から見てNHKの集金で無い事は確かだ。正月には当然、選挙も無い。
「何言ってんの。私の事覚えてないの?」
「え?」
「はぁ? 中学まで一緒だった洋子よ。とぼけないでよ」
「あ」
「はぁ? あ、って何よ。態とらしい」
 言われてやっと気が付いた。本当だ。間違い無い。早乙女洋子だ。男子の人気者だった早乙女洋子。八重歯の可愛かった早乙女。アイドルになりたいと言っていた洋子。面影が残っている。が、十五年振りに会った早乙女洋子には何処か疲れた女の雰囲気がした。少女時代の華やかさは、今の洋子には感じられない。
「ごめん」
「はぁ? 謝るんなら最初から分かんない振りなんかしないでよ」
「あ、うん。でもそれよりどうしたの。今日。ほらあのいきなり。っていうか何で俺ん家知ってんの」
「おばさんに聞いて来た。それよりあんた何でわざわざこんな実家の近くに住んでんの」
「そっか。あ、ほら、何ていうか近いと楽じゃん。洗濯とか。それよりどうしたの今日は」
「よく喋るようになったのね」
「え?」
「前はこんなに喋んなかったじゃない」
 一気に体温が上がって、十秒後、急激に寒くなった。腋の下と尻の割れ目を汗が流れて行くのが分かる。会話が成立しない。アントニオ猪木だったら、こんな時どう答えるだろうか。北方謙三に聞いたら、どんなアドバイスをくれるだろうか。女は冷めた目で、挑むように見ている。
「まあ大人になったら人間変わるって事ね」
 そう言って早乙女洋子は上着のポケットから薬用のリップスティックを取り出し、乾いた唇にそれを塗り付けた。
 三十女の唇がべったりと潤って行くのを呆然と見ながら、矢吹丈一は途方に暮れた。何故この女はここに来たのか。理由が思い浮かばない。あるとすれば、やはり宗教の勧誘か。そうに違いない。宗教に嵌った女が同級生の家を布教して回っている。そうとしか考えられない。勇気を出して初恋の相手に会いに来たなんて事は、どう考えてもあり得ない。
 矢吹は無言で部屋の鍵穴に鍵を差し込み、女を無視してドアを開けた。
「わりと綺麗にしてんじゃない。男の一人暮らしにしては」
 振り返ると、早乙女洋子がショートブーツのチャックを下ろし始めている。
「なに。びっくりした顔して。入っちゃまずいわけ?」
「いや、そんな事ないけど…。でも…ホント何で来たの?」
 睨まれた。
「ふんっ。知ってる癖に」
 脱いだブーツを玄関に叩き付けて、洋子は矢吹よりも先にワンルームの中に入って行く。ソファー代わりのシングルベッドに勝手に腰掛けて、コートのポケットから取り出したメンソールの煙草に忙しなく火を点けた。冷え切った躰をさすり、無遠慮に煙を吐き出す。
「あー寒っ。一時間半も待ったわよ」
「すいません…」
 矢吹は洋子の脱ぎ散らかしたブーツを揃え、ファンヒーターを点け、ベッドの上に灰皿を出した。温風が噴き出し、薄荷煙草と石油と香水の臭いが六畳の洋間に拡がった。
「エアコンとか無くて夏とかどうするわけ?」
「夏? 夏は、まあ、扇風機とかで、何とか…」
「いいけど別に。これ結構暖まるんだね。臭いけど」
「まあ、わりと」
「ふーん」
 洋子は三分の一残った煙草を消し、コートを脱いだ。袖口に髪の毛が付いているのに気付き、指先で摘んで灰皿に捨てた。燻った煙草の火がそれに触れて、小さく、ちりりと音を立てる。