ファック・トゥー・ザ・フューチャー
「そっか。でもほんとまた遊ぼうよ」
「うん」
「でも俺、逆にメール苦手だから電話教えといてよ。変な時間にかけないから」
「はぁ」
返事の代わりに溜息を吐かれた。
立ち上がった女は不機嫌にブーツを履き、矢吹は女がYKKのチャックを上げるのを呆然と見ていた。中途半端な丈のスカートから覗く形の良い脚。兎の耳の様に折れ曲がったもう片方のブーツから薄く漂う、女の足の臭い。
こんな女に。
こんな中途半端な女に。
新年早々、新世紀早々、振られる俺。
「いくら?」
両足のチャックを上げた女が振り返って言った。
「あ、いいよ」
「ごちそうさま。じゃあまたメールして」
「うん。またね」
最悪の結果になった。テーブルの上の冷めた烏賊のリング揚げをつまんで女の残したグレープフルーツサワーを一口飲んだ。どこか痒い所ありますか? と床屋で聞かれても何時も決まって特に無いです、と答えてしまう。そんな押しの弱さが敗因である事は自分でも良く分かっているのに。伝票を表替えして溜息を吐いた。
「お代わり頼まなくてよかったな…」
そう呟いて、自分の小ささに落ち込んで行く。
ジョッキに二センチ残ったグレープフルーツサワーを一息で飲み干して、矢吹丈一はまた溜息を吐いた。
長渕剛を熱唱するストリートミュージシャンを中国人のカップルが楽しそうに見ている。正月の歓楽街は普段よりも人が少なく、アジア系の外人観光客ばかりが目に付いた。
肩を落として駅へと向かう。次々と声をかけてくるポン引きを無視しながらとぼとぼと歩く矢吹を、髪の長い女が追い越していく。ボディーソープの残り香。フローラルの甘い香り。風俗嬢だと匂いで分かった。
矢吹丈一は歩を速め、女の横顔を覗き見た。薄幸そうな白い皮膚。形の良い小さな目。薄い唇。髪の先が少し濡れている。
コートの下の細い躰を想像しながら、矢吹は女を追った。脂肪の無い華奢な躰。水の溜まる鎖骨。小振りながら張りのある乳房。白い太股に浮かぶ青い血管。切なげに悶える赤い口腔。
せめて働いている店を教えて欲しいと思った。同時に、もし店を知ってしまったら暮れに貰った僅かな賞与の残りを一気に遣い切ってしまうであろう自分の性格を思い、少し背中を丸めた。不景気を理由に一ヶ月分しか出なかったボーナスも家賃の更新料とダウンジャケットとスニーカーとヘルス二回で半分以上遣い切ってしまった。
JR新宿駅の階段を地下改札に降りていく女の背中を見送り立ち止まった矢吹は、ダウンジャケットのポケットから取り出した財布の中身を確かめた。
一万五千円と小銭が少し。
元旦はATMも多分やっていないだろう。もしかすると明々後日あたりまで貯金が下ろせないかも知れない。一万円ぐらいは残しておかないと…。今日はヘルスには行けない。
高層ビルの天辺についた巨大な時計が九時十五分を指している。一人暮らしのアパートに帰るには、まだ早い。煙草に火を点けて歓楽街を振り返ると、酔った女を介抱する男がどさくさに紛れて乳房を揉んでいた。
立て続けに二本目の煙草を銜え、矢吹は歓楽街へ歩き出した。人込みの雑音で心が癒されていく。二人組の男が二人組の女に声を掛けた瞬間、「カラオケどうっすか?」薄っぺらなベンチコートを着たカラオケ屋の店員が割り引きチケットを突き出す。さっきまで長渕剛を歌っていた男が、今は尾崎豊を熱唱している。
自動ドアが開くと無意識に尻の穴が締まった。財布から五千円札を取り出し、二千円分をプリペイドカードに変えた。最新のパチンコ台に向かい、ハンドルを捻る。飛び出した銀玉の軌跡を目で追いながら、脳の中ではヘルス嬢に逸物を銜えさせていた。
勝てる気がしていた。昔から勘が良かった。
惜しいリーチの後、玉が切れた。残りの三千円を一気にカードに換え、缶コーヒーを買って台に戻ると、両隣の台がフィーバーしていた。
嫌な予感がした。昔から勘が良かった。
両隣の中年が、矢吹を挟んで会話している。
「やっと出始めたね」
「やっとだよ。確変だから次も来るよ。そっちは?」
「おれも確変だから次で三連チャンだね」
挟まれた矢吹の台は、泣きたい程静かに玉を飲み込んで行く。甲斐甲斐しく両隣の箱を変えに来る店員が憎らしかった。
漸くスーパープレミアリーチが掛かり、矢吹丈一はハンドルから手を離した。残り玉は数発。最後のチャンス。両隣の中年が同時に矢吹の台を覗き込んだ。
「あー、惜しい」
両側から同時に声が上がり、矢吹はピストルで額を撃ち抜かれた様にがっくりと肩を落とした。
「畜生」
居酒屋で六千円。パチンコで五千円。出会い系のメールで多分三千円位。最初から一万四千円持ってヘルスに行った方が余程良かった。怒りに鼓動が激しくなり耳朶が熱くなった。最後の一発が地球の引力に吸い込まれていく。喫おうとした煙草の箱は空だった。
「糞っ」
パチンコ台を小突いた。
「はあ…」
溜息を吐いて立ち上がろうとしたその時、台の硝子に亀裂が走った。
やばい。
亀裂は放射線状に広がり、崩れ落ちた硝子の破片が慌てて立ち上がった矢吹の足下に落ちた。
「おい、何やってんだお前」
「あーあ、何やってんだよ」
両隣の中年が驚いて見ている。本人は気付いていない様だが、左隣の男の右頬に小さく血が滲んでいる。
逃げた。
店員を突き飛ばし客を掻き分け表に跳び出した。上体を傾けてコーナーを曲がり腿を上げて走った。無呼吸で大ガードを疾走し、青信号の点滅する交差点を渡った。空車の赤いランプの点ったタクシーに滑り込み、姿勢を低くする。
「京王線の初台の駅まで行ってください」
「はい」
不自然に息を切らした矢吹を、バックミラーの中の運転手が不審気に見ている。矢吹は運転手の死角に入ろうと尻一つ分右に移動し、そっと後ろを振り返った。
ネオンの街。遠くなったガードの上を黄色い電車が走っている。追いかけてくる車は、無さそうだ。
こんな筈じゃ無かった。女と一発決める筈だった。パチンコに勝ってヘルスに行く筈だった。あんなに簡単に硝子が割れるとは思わなかった。下を向くと右の拳から血が滲んでいた。
子供の頃は何でも分かった。急に学校に来なくなった高木君の机上に透明な瓶に入った白い花が置かれる事もイメージ出来たし、岡田有希子が自殺した時もやっぱりな、と思った。ノストラダムスの予言が当たらない事も知っていたし、岸部シローが破産する事も何となく分かっていた。
なのに。今は出るパチンコ台すら分からない。
矢吹丈一の職業は、テレビコマーシャルの映像編集プロダクション営業マンだ。と言っても、クリエイティブでお洒落な仕事では全く無く、電話で仕事を受けて編集室と編集マンのスケジュール調整をし、作業が終わったら料金の交渉をするだけの至って地味で味気ない毎日を過ごしている。実家から三百メートル離れた場所に家賃五万八千円のアパートを借りて一人暮らしを始めたものの、月末になると夜中にこそこそ実家の冷蔵庫を漁る生活。単調な毎日。繰り返し、繰り返し。矢吹以外に二人居た同期入社の営業部員は、一年も経たない内に田舎に帰った。
「もう初台の駅だけどどの辺で降りますか?」
「あ、この辺でいいです」
作品名:ファック・トゥー・ザ・フューチャー 作家名:新宿鮭