ファック・トゥー・ザ・フューチャー
夢は一つとして叶わなかった。稚拙な文章を書いた自分が今となっては恥ずかしい。原色のウエディングドレスを着る事もこの歳ではもうあり得ない。
子供の頃は正月が大好きだった。大晦日のレコード大賞から紅白歌合戦。年が明ければスターかくし芸大会。憧れがブラウン管の中で躍動していた。そして今、二十一世紀。ブラウン管の中に自分は居ない。二十代最後の正月に家族と餅を食べる気まずさ。年賀状は美容院からしか来なかった。
「ごちそうさま」
「あら、もういいの?」
二階の部屋に籠もって煙草を喫う。短大の時に買ったスヌーピー柄のカーテンが煙草の脂で茶色くくすんでいる。
デカチビ光線銃は出来なかった。それどころか未だに10チャンネルではドラえもんがやっている。
隣の家の二階に住む陰気な高校生がモーニング娘のCDを聴いている。
二十一世紀になっても、何も変わらない。
二十一世紀になっても、何も変わらない。
21世紀になっても、今とそんなに変わらないと思う。
女の子はアイドルになりたいとか言っているけれど、有名になる人は一人もいない。
「あいつ…」
運動会に来なかったあいつ。
「たしか…」
学芸会で木の役だったあいつ。
「名前は…」
名前が思い出せないあいつ。
「何だっけ…、漫画みたいな名前だったような…」
埃まみれの卒業文集を押し入れの奥から探し出し頁を捲る。変色した紙から糊の匂いがした。
6年1組。荒木石田伊藤宇野
「どれだ…」
合唱コンクールで歌わなかったあいつ。口だけ開けて声を出さなかった事を私は知っている。橋本前田森島矢吹矢吹矢吹矢吹
矢吹丈一
「こいつだ」
21世紀になっても、今とそんなに変わらないと思う。
女の子はアイドルになりたいとか言っているけれど、有名になる人は一人もいない。
顔が思い出せない。
卒業アルバム。青い表紙に金文字で飛翔と書かれたアルバムが卒業文集の隣にあった筈だ。
矢吹丈一
一人だけ下を向いた少年。まるで特長の無い顔。
「こいつ…」
早乙女洋子は下唇を噛んだ。
「何でこんな事、分かったのよ」
尖った八重歯が下唇の皮膚を破り、鉄臭い血の味が広がっていった。
※
四十代も半ばを過ぎると変な所から毛が生えてくるものだな。
遅く起きた元旦の午後、三日ぶりに顔を洗う。洗面所の鏡の中に発見した一本の耳毛を弄りながら田中雄三は自虐的に嗤った。
「はは、もう駄目だ、はは、まるで駄目人間の巻」
酷い顔。濁った目。禿げ始めた額の上に寝癖だらけの頭。生気の無い肌。少し前に世間を騒がせた借金まみれの男に我ながらよく似ていると思った。グループサウンズのスターだった男。長い潜伏の後、自己破産申請を終え久しぶりにワイドショーのカメラの前に姿を現した時の、あの男の顔によく似ている。焦点の定まらない目。弛んだ瞳孔。締まりのない口。黄色くくすんだ前歯。赤黒い歯茎。多分、人生の勝ち負けは顔に出る。
何の希望も無い人生。向上心の無い顔。煤けた木造の借家に籠もって、ただ寝るだけの休日。耳毛。
指先で摘んで伸ばしてみると、三センチはあるだろうか。髪の毛や陰毛と変わらない太さの黒々とした耳毛。しっかりと根を下ろした頑丈な毛根。全く生気のない体の中で、そこだけが生命力に溢れている矛盾。
お め で と う ご ざ い ま 〜 す !
点け放しのテレビ。傘回し芸人の声が煩い。
「何年同じ事をやってるんだ…、くだらんな…」
正月になると必ず出て来る傘回し芸人。餅を喉に詰めて死ぬ年寄り。初詣の帰りに事故で死ぬ奴。誰が買うのか分からない一億円の福袋。
何年経っても変わらない。
何年経っても俺は出世しない。
「くだらない」
顔を顰めて、耳毛を引き抜いた。針で刺したような、小さな痛みが走る。
「痛て」
呟いて、虚しくなった。
人差し指と親指の間で、白い毛根が付いた縮れ毛を回す。
くるくる
くるくる
くるくる
「新世紀、あけましておめでとうございます。二十世紀よりも多めに回してます」
くるくる
くるくる
くるくる
回る毛先をぼんやりと見ながら、田中雄三はふと、嘗ての教え子、矢吹丈一を思い出した。
あの時。
子供らしくないと何度も書き直しをさせた卒業作文。三度目の書き直しで、漸く現れた本性の欠片。今にして思えば、全てあの少年の言った通りになっている。二十一世紀になっても、本当に何も変わらなかった。ノストラダムスの予言も当たらなかった。二本足で歩くのがやっとのロボット技術。自動車は相変わらずガソリンで走り、排気ガスを撒き散らしている。矢吹の居た学年どころか自分の教え子全部を見ても、有名になった者は一人も居ない。
「矢吹丈一、か…」
十八年前。まだ青臭い理想に燃えていた田中雄三にとって、矢吹丈一は憎らしい子供だった。特長のない顔。普通としか言いようの無い程中庸な成績。運動会を休んでもクラスの殆どが気付かない希薄な存在感。良くも悪しくも目立たない、そんな矢吹が嫌いだった。九九を暗唱したのも四十人中二十番目。逆上がりが出来るようになったのも。持久走の順位も。給食を喰う速さも。身長も。体重も。全て。真ん中を大きく外れない、出席番号二十番の矢吹丈一が嫌いだった。
もしかすると。
もしかすると矢吹は態と中庸を目指しているのではないか。そうに違いない。若い熱血教師は何度も同じ疑念を抱き密やかに彼を観察していた。然し、疑念は疑念のまま。沸き上がる憎悪はぶつけようの無いまま、ただストレスだけが蓄積していく。非を見付けて叱りとばそうにも、存在感を巧みに殺した矢吹には付け込む隙がまるで無かった。唯一、田中雄三がその嗜虐性を満たす事が出来た事件が、卒業作文の書き直しだった。
大学に入って立派な会社員になりたい。一度目の作文はそんな普通の内容だった。憎らしい程差し障りのない文章。気に入らない生徒を虐める最後のチャンス。然し、大人が手抜きして書いたような文章に夢が無いと文句を付け書き直しを命じた時の矢吹の顔に、期待していた動揺は見られなかった。ただ小さく「はい」と応えて俯くだけのつまらない反応。振り返って去って行く矢吹の背中には感情が無かった。
二度目の夢は会社の社長。何の会社かは分からないと答えた。
三度目の夢はプロ野球選手だった。先生を馬鹿にしているのかと原稿を破り捨てたその時、矢吹は初めて僅かながら本性を見せた。切れかけの蛍光灯が点滅する音よりも小さな、舌打ちの音を田中雄三は聞き逃さなかった。
四度目。印刷の締め切りぎりぎりで持ってきた矢吹の作文を、十八年経った今でも、田中雄三はしっかりと覚えている。忘れられない文章。忘れられないあの目。
あの時。
半眼で冷笑した矢吹は知っていたのだろうか。
あの時。
喉仏が音を立てて上下するのをじっと見ていた矢吹の目には、虫眼鏡で蟻を焼く少年の残酷さがあった。
あの時。
あいつはきっと知っていた。
熱血ぶった偽善者の末路を。一年後の私を。十八年後の惨めな私を。
「ああ…」
寝癖だらけの髪を掻き毟る。抜け落ちた十数本の髪の毛と大量の雲脂が、今夜ゴキブリ達の餌になる。
「ああ…。あんな…」
作品名:ファック・トゥー・ザ・フューチャー 作家名:新宿鮭