ファック・トゥー・ザ・フューチャー
壁を蹴り飛ばそうと振り向いて、やめた。きっと今、あいつは、一番いい所だ。
正月の空が、ポスターカラーで塗ったように青い。外に出る時、吉田日出男の右手は必ずポケットの中だ。左手に提げたビデオ屋の袋を店員に返し、観たくもない2001年宇宙の旅を何となく借りた。コンビニに入ってカップラーメンとカレーパンと苺大福と缶コーヒーを買い、自販機でセブンスターを二箱買った。田舎者がすし詰めの電車に乗って消えた後の駅前は、親や旧友に会うよりも性器を擦り合う事を選んだカップルばかりがやけに目立ち、股間が疼く。吉田日出男はエロビデオを借りなかった事を少し後悔した。
空腹に耐えきれずに歩きながら苺大福を食べた。奇形の指先に付いた白い粉を舐めながら、日本の平和を呪った。
郵便受けを空けると年賀状が一枚。レンタルビデオ屋からの年賀状。正月特典! ビデオ一本無料レンタルキャンペーン。ゴシック体の黄色い文字に舌打ちをする。
「矢吹か…」
赤錆だらけの階段を上りながら呟いた。幼稚園から中学まで同じ学校だった矢吹。小学校の五六年で同じクラスだった矢吹。勉強が出来る奴だった気もするし、そうじゃなかった気もする。走るのが速かった気もするし、跳び箱も跳べない奴だった気もする。太っても痩せてもいなかった矢吹は、身長も確か普通だった気がする。
「矢吹丈一…」
声に出して呟いてみても顔を思い出せない。
留守番電話の赤いランプが点滅している。聞くまでもない。きっとまた母親に決まっている。歩いて数分の距離に住みながら、もう二年近く親には会っていない。
「矢吹丈一…」
思い出せない。まだ実家にいるとしたら、駅前あたりで何度も擦れ違っているかも知れないのに。
テレビの中で猿人が騒いでいる。2001年宇宙の旅。始まって十分もしないうちに、吉田日出男はビデオを止めた。
「あーあ」
窓の外が夕方になっている。炬燵の中、足指の先が卒業文集に触れた。
「矢吹…。おまえ…」
元旦の陽が暮れる。何も無かった一日。虚しい正月。虚しい新世紀。寂しい誕生日。惨めな三十代の始まり。
「おまえ…。何で、分かったんだ?」
※
欧米のスーパーモデル達は、皆やっているらしい。
手の中に買ったばかりのボラギノール軟膏。痔の薬が目尻の皺伸ばしに効くと知人に聞いた。先端の銀色を破って穴を開けると、濁った透明が丸く滲み出す。指先に五ミリの軟膏。鼻を近付けると思った程の異臭は無い。目線を上げると鏡の中に三十女。艶の無い髪。張りの無い肌。
今年こそ幸せになりたい。今年こそはブレイクしたい。
早乙女洋子は憎らしい目尻の皺に一気に痔の薬を塗り込んだ。
笑ってみる。
唇を尖らせて挑発してみる。
乳房を寄せて唇を舐める。
そうしているうちに十分が経った。
変わらない。何の効果も感じられない。
多少の突っ張り感はあるものの、目尻の皺はそのままそこにある。
「やっぱり…、国産じゃ駄目なのかな…」
スウェットを脱いでブラジャーを外す。赤紫の乳首が、寒さに硬くなっている。乳房の周りに付いたゴムの痕が、中年期の始まりを警告している。透明のブラジャーを着けているような、間の抜けた躰。
早乙女洋子は全裸になり、洗面所の横にある風呂場のドアを押した。指先に余った軟膏を何となく肛門に塗り付ける。
熱いシャワーを頭から浴び、目尻の痔薬を落とす。磨り硝子の窓から差し込む陽光が閉じた瞼を貫いて、新世紀の始まりを告げている。今年で、二十一世紀で、三十歳になる。あと二ヶ月。三十歳の誕生日まで、あと二ヶ月。
曇った鏡にシャワーを掛ける。気に入らない。目尻の皺が気に入らない。低い鼻が気に入らない。顎の形も気に入らない。歯並びの悪さも。
八重歯。
そう。
子供の頃は、この歯が自慢だった。チャームポイント。八重歯で人気のアイドル歌手と自分を何時も重ね合わせていた。クラスのみんなに、似ていると言われた。クラスの男子みんなが、自分に夢中だった。シンデレラも白雪姫も赤ずきんちゃんも自分だった。学芸会では何時も主役だった。
八重歯の可愛い洋子ちゃん。
その八重歯が、今は憎らしい。
「もう…。はぁ…」
溜息ばかり吐くようになった。
アイドル歌手には、なれなかった。
早乙女洋子はファミリーレストランのウェイトレスだ。時給八百五十円。週に四日のアルバイトでも生活していけるのは実家で親と同居しているからで、普通の会社に勤めていないのは芸能活動をする為だ。業界内で仕出し屋と呼ばれるエキストラ専門のプロダクションに登録して十二年。モデル事務所やタレント事務所にステップアップするチャンスは、未だに巡っては来ない。
「はぁ」
口を開けば結婚しろと煩い両親。
「はぁ」
遊ばれてばかりの男関係。
「はぁ」
不倫相手は今頃、家族で初詣にでも行っているだろうか。有名にしてやると騙した男。同じ手に何度も引っ掛かる馬鹿な自分。
シャワーの温度を上げると立ちこめる湯気で鏡の中の自分が消えた。
今日はもう、何処にも行かない。
「洋子ちゃーん。ごはんよー」
親に呼ばれて家族で餅を食べる。父、母、自分。独立して一人暮らししている弟は、今年もまた、帰って来ない。
「どう?」
「うん…」
味覚を感じない。餅も豆も蒲鉾も数の子も、正月に食べる物はみんな嫌いだ。不機嫌な自分を見て父親が舌打ちする。父親を嫌いだと思うようになってから、もう十年以上が経つ。
舌が気持ち悪い。雑煮の汁の粘り気に、虚しさが込み上げてくる。射精の時、当たり前の様に口の中に出すあの男。不満はあっても何も言えず、喉に貼り付く不快感を我慢する自分。あの男は妻との夜も同じ事をしているのだろうか。そんな筈はない。私はあの男の妻よりも身分の低い道具に過ぎない。食卓のテレビの中で、傘を回す芸人。お節料理。雑煮。家族。
「洋子ちゃんおかわりはいいの?」
母親の声を無視して、早乙女洋子の心は虚空を彷徨う。なつかしいあの頃。人気者だった。輝いていたあの頃。主役だった。自分以外の人間が全てエキストラに感じたあの頃。
21世紀の私 6年3組 早乙女洋子
私の夢はアイドル歌手になることです。そしてもくひょうにしているアイドルは石野真子ちゃんです。スター誕生で歌手デビューして石野真子ちゃんみたいにベストテンで1ばんになって歌いたいそして私は黄色が好きなカラーだから黄色いワンピースを着てくつも黄色いかわいいのをはいて歌いたいと思います。そしてアイドルを卒業したらドラマとかで女優さんの仕事もやってみたいと思います。そしておよめさんにもなりたくて結婚しきでは黄色なウエディングドレスをきたいと思っています。
そして21世紀になるとすごい世の中になると思うタイムマシーンやどこでもドアが出来るかもしれないと思います。私がドラえもんの中でほしいものはデカチビこうせんじゅうでそれができたらだいじにしているスヌーピーのぬいぐるみを大きくして遊びたいと思うのでいつかできたらいいなと思います。
作品名:ファック・トゥー・ザ・フューチャー 作家名:新宿鮭