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ファック・トゥー・ザ・フューチャー

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 巨人軍の永久欠番、背番号1のユニフォームを諦めたフリーターの三十男が、金属バットを手に器具室に入って来た時には、全ての準備が整っていた。その時が近付き、少し緊張しているのか、吉田の笑顔は不自然に強張っている。洋子がまだ居ない事に気付いた吉田は、「女の着替えは遅せえなあ」と舌打ちし、「バットなんか持つの久し振りだよ」と誰にともなく言った後、体育館に出て、数回、素振りをした。事故から十四年。無い事が当たり前の様になった右手の先が、しっかりとバットをグリップしている。もう一度、野球をやりたいと思った。明日から、何かが出来る気がした。

「ちょっとぉ。あぶないからどいてよ、そこ」
 振り返った吉田は、ぎょっとしてバットを落とした。
「お前、違うじゃん…」
「違うって何よ。馬鹿のくせに。どいてっ」
 洋子は吉田を突き飛ばし、器具室に入って胸を張った。
「おまたせっ」
 袖と裾と首周りに白いフリルの付いた黄色いワンピース。前髪を四十五度前方に立てたポニーテールに黄色いリボン。ビューラーとマスカラで誇張された目元。左手には色褪せたスヌーピーのステッカーが貼られた旧型のラジカセ、右手には金色のカラオケマイクを握っている。
 矢吹と田中は、一瞬呆然とし、言葉を亡くした。女は何時も、計画を狂わせる。頭頂部から怒りの熱が降りてきて、足の裏が汗で湿った。叱って着替えさせるべきか、無理に微笑んでこのまま撮影するか。二人は頭に同じ二つの選択肢を思い浮かべ、天秤に掛けた。前者は、最悪の場合、準備が全て水の泡になる危険性を孕んでいる。後者は、妥協以外の何ものでも無い。
 矢吹は一旦、歯を見せかけ、開きかけた唇をすぐに結んだ。やはり妥協はしたくない。そう思ったその時既に、矢吹の頬の動きに反応した田中の口が、反射的に言葉を発していた。
「早乙女君。制服は…、どうした…」
 田中は、矢吹が踏み止まったのを見て、失敗したと思った。これは自分の言うべき事では無かった。
「うるさいわね、じじい。ちゃんと持ってきてるに決まってんじゃない。変態。さっきから余計な事ばっかりやって。制服制服って制服なんか後回しに決まってんじゃないロリコン。ねえ、矢吹君。先にこっちから撮ってよ。学校のアイドルでしょ。そう言ってたじゃない。私、歌うから」
「う、歌うって…」
「歌っちゃダメなわけ? いいじゃん。なんでダメなのよ」
「いいけど…、どこで…?」
「決まってるじゃん。あそこ」
 黄色いマニキュアを着けた洋子の指先が、紫紺の緞帳が下げられた講壇を真っ直ぐに指している。
「それを、撮るわけ?」
「そう」
 矢吹の視線が、講壇の右上にある時計に動いた。十時四十五分。考えて見れば、それ程慌てる事も無い。制服をちゃんと持って来ているのならば、焦る必要も無いだろう。後で、白けながらイメージカットを撮るよりも、先にやってしまった方が寧ろテンションが下がらなくて良いかも知れない。
「いいよ。じゃあ準備しよう」
「ほんと?」
 洋子の顔が面を付け替えた様に明るくなった。剥き出しになった右の八重歯に、口紅が付いている。
「じゃあ吉田君も手伝って」
「いいよ。何すればいい?」
 何か機材を運ばせようと器具室の中を振り返ると、既に田中は準備を始めていた。

 三脚に取り付けたカメラを運び出しながら、近付いて来た田中が、耳元で囁く。
「照明はどうする? テープは回すか」
「はい。一応出来る範囲でちゃんと撮ります」
「わかった」
 矢吹は吉田にライトを運ばせ、自分はドラムコードを延ばして電源を確保した。まるで手慣れたプロのスタッフがやるように準備は着々と進行し、何時の間にか居なくなった田中が、どこかステージ裏で操作をしているらしく、講壇のダウンライトが音も無く灯った。軽快に階段を上った洋子は壇上に立ち、奇妙なスキップで何度か舞台を往復した後、邪魔な演台をどけるように吉田に命令し、吉田と戻ってきた田中がそれを運ぶのを満足げに見た。
「ありがと。これで動きやすくなった」
「早乙女君。音楽は何で再生する。CDかな」
「カセット。悪い?」
「確か講堂のスピーカーでかかる筈だ。爆音とまではいかんがラジカセよりは良いだろう」
「ふん。じゃあ、そうして」
「マイクもケーブルがあるから、そこから音が出るように出来る」
「ふーん。じゃあ、そうして」
 洋子はラジカセからカセットテープを取り出し、無愛想に手渡した。手首のスナップを効かせた素早い動きで差し出されたスケルトンのテープには、2001・1・4さつえい用とマジックで書かれたラベルが貼ってあり、田中はステージ裏の音響装置の方に向かいながら、鼻水を飛ばして吹き出した。
 ワイドコンバージョンを外して上着のポケットに入れた。矢吹はフォーカスをロックし、携帯電話の着信履歴01番に残った田中の番号をコールした。
「もしもし、僕の方はいつでもオッケーです。先生どうですか?」
「大丈夫だ」
じゃあ直前まで電話はこのまま繋いで置いて下さい。吉田くーん。そろそろ撮るからそこ下りてー」
 何故か爪先立ちになった吉田が舞台を駆け下りると、洋子はマイクを両手で構えて真っ直ぐに立ち、カメラのレンズ越しに矢吹と目を合わせた。
「ねえ。もう撮ってるの?」
 スピーカーを通した洋子の声がホールに響く。
「まだだよ。じゃあ回すね」
「まだ音楽かけちゃダメだからね。私がおじぎしたらすぐかけて」
 受話器の向こうから、「分かった」と、田中の声が聞こえ、舞台の袖を見ていた洋子が満足げに頷く。
 RECボタンを押す。液晶に赤いランプが点り、カウンターが回り始める。
「さあ、行こうか」
 洋子が頷く。自分以外に三人しか居ない体育館の舞台で、掌に人という字を十回以上書いて飲み込む奇行をした後、大きく息を吸い込んだ。

「あ、あ、テスト、テスト。じゃあ行くね。えー。初めまして。お月様の月って書いて、ルナって言います。名字は、まだ、考え中です。もうすぐ二十三歳です。歌います」
 お辞儀。
 田中は涙を流して笑いながらカセットデッキの再生ボタンを押した。これ程笑ったのは、一体何年振りだろうか。小さな事ではあるが、確かに、今日を境として人生が変わる気がした。呼吸が出来ない。酸欠で蒼白になりながらも、ここに来て良かったと、本当に思った。
 八十年代初期のアイドル歌謡。イントロが流れ出し、洋子は小刻みに膝でリズムを取り始めた。四小節後に曲は大きく転調し、弾ける様に踊り出す。反復横飛びに近い大きな動きで左右にステップを踏み、マイクを持っていない方の手を右上から左下、左上から右下に、千切れそうな程振っている。矢吹はカメラに添えた手を離した。笑いを堪えて震える体が、カメラを揺らしていた事に気付いたからだ。体の中に、笑気ガスが充満し、爆発しそうだ。目を逸らせたい、でも見ている。洋子は一瞬たりともカメラから目線を外す事無く、甘えた声で歌い出した。お互いに通話を切り忘れた携帯電話から、微かに田中の笑い声が聞こえる。矢吹はファインダーを覗く振りをして、両目を閉じた。少しもったいない気もしたが、大丈夫だ。すべてはテープの中に、収められている。明日になれば、気絶する程笑える。我慢。
 間奏。