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ファック・トゥー・ザ・フューチャー

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 少しだけ納得した洋子は、何となく濡れた指先の臭いを嗅いだ後、歯を研き始めた。喫煙習慣で黒ずんだ八重歯の裏を入念に研きながら、有名になる前に矯正したいと思った。そう言えば、石野真子もいつの間にか歯並びを治していた気がする。出来れば歯並びだけでなく目も鼻も顎の形も直したい。但し、その為には親に甘えて金を出して貰わなければならない。整形したいと言ったら、親はどう反応するだろうか。反対するに決まっている。それ以前に、親に相談する事を考えただけで憂鬱になる。親が嫌いだ。特に父親が嫌いだ。洋子は歯磨きを吐き出し、また鏡の中の嫌いな顔を見た。
 アダルトビデオに出てタレントになる。
 アダルトビデオに出てタレントになる。
 アダルトビデオに出てタレントになる。
 と、いう事は、もしかして、そういう事? そうか。
 洋子は八重歯を剥き出しにして鏡に笑い掛けた。そうだったのか。アダルトビデオに出ればお金が入る。そのお金で少しずつ整形して行って、少しずつ綺麗になって、どんどん人気が出て、ちょっとずつテレビに出始めて、そのギャラでまた少しずつ整形して、どんどんどんどん綺麗になって、最後には物凄く有名になってる。そうか。分かった。そういう事だったのか。
 早乙女洋子は生乾きの髪を梳かし、また指を舐めた。目は閉じていた方が良さそうだ。
 躰にフィットする黒いタートルネックを着て、いつもの黄色いコートを羽織った。ビデオの女のように一回転して、微笑んでみた。台所から煮物の匂いがする。数分後に、母親は家族を食卓に呼ぶだろう。もう沢山だ。いい加減に家を出て、バストイレ別でオートロック付きのマンションに一人暮らししたい。場所は勿論、調布や府中や八王子では無く、港区に決まっている。晴れた昼にはオープンカフェでお茶を飲み、芸能人御用達のイタリアンレストランで高級ワインを飲みながら、小皿に盛られた綺麗な料理を少しずつ何品も食べたい。
「お父さーん。ようこー。ごはんよー」
 返事をしない唇にリップスティックを塗り付けて、洋子は洗面所のドアを閉めた。今日は親戚の子供が家に来る。お年玉をねだられない内に、家を出なければならない。父親とそっくりな顔をした茨城弁の抜けない叔父にも、犬にイニシャル入りの手編みのセーターを着せる叔母にも会いたくない。会えば必ず、いつ結婚するんだと聞いてくる煩い親戚。
 台所を通って、無言で玄関に向かう。どこへいくんだと舌打ちする父親。筑前煮の皿を手に溜息を吐く母親を無視して、早乙女洋子は陽光の下に出た。雲の無い空に光る太陽は子供が描いた下手糞な絵の様で、自分の撮影が行われる日は、もっと幻想的な雲があると良いと思った。

 駅前のドトールで生クリームの乗ったアイスコーヒーを飲んだ。硝子窓から見える改札からは、大きな鞄を持った帰京者が次々と現れて散っていく。もう何日かすれば彼らはスーツに着替え、毎朝満員の電車に乗るのだろう。洋子にはサラリーマンやOLの気持ちが理解出来なかった。せっかく生まれて来たのに何故毎日同じ電車に乗って同じ職場で働かなければならないのだろうか。有名になりたい。マネージャーが車で迎えに来れば、電車に乗る必要も無くなる。
 腕時計を見ると、午後一時を回っていた。中学の同級生に似た女が、五歳ぐらいの男の子を連れてパン屋に入っていった。肉屋の娘で太っていた女。もし彼女だとしたら、いつの間に痩せたのだろう。幸せそうな親子。産道から赤ん坊を捻り出した時、肉屋の娘はどう思ったのだろう。
 仏頂面で携帯を弄っている正面の席に座った女子大生風の女が、遅れてきた恋人に微笑んだ直後に、早乙女洋子は店を出た。歩道橋の上から見る甲州街道は早くも渋滞が始まっていて、誰かが捨てたコンビニの白い袋が、ゆっくりと進む車の列に何度も踏まれて宙を舞った。爆音でカーステレオを鳴らす赤いスポーツカーのドライバーは、リズムに合わせて顎を突き出している。ダンスミュージック。映画のエキストラでクラブに行った時に、助監督の男が言った言葉を思い出した。そこの黄色い君、ちょっと浮いてるからもうちょっと後ろの方回って。若者達の嘲笑。屈辱だった。
 ありふれた路地を抜け、ありふれた人間と擦れ違い、ありふれた二階建てアパートの階段を上る。どこにでもあるような普通のアパート。オートロックである筈がないドアの前に立つ。その扉を開けると、そこはドライアイスの焚かれたステージで、幻想的なレーザービームが七色に放射されている。舞台の真ん中に立った瞬間、曲のイントロ。同時に眩しいスポットライトが私を照らし、いつの間にか背後に現れたバックダンサー達が曲の転調と共に踊り始める。私を引き立てる為に、汗を流す男女。私よりも何時間も前にスタジオ入りして、何時間も待たされたダンサー。イントロが盛り上がり、ボーカルの出頭三拍前。私は弾けるように笑いながら、大きく息を吸う。
 もう二度と後ろには回らない。
 もう待たされない。
 ノックもせずにドアノブを捻る。男の足の臭い。一斉に振り返る三人の観客達。早乙女洋子は八十年代のアイドル雑誌のような笑顔で言った。
「おまたせっ」



「あれ、何? 変態先生じゃない」
 ユニットバスとキッチンに挟まれた狭く短い廊下の先。安物の青い絨毯に座っている男は二人ではなく三人で、小汚い三番目の男は、小学校時代の担任教師だ。洋子は乱暴にブーツを脱ぎ部屋に上がり込むと、毛玉だらけの茶色いセーターを着た小男の顔を覗き込んだ。
「やっぱりそうじゃん。なんで変態先生がここにいるの?」
 田中雄三はそれに答えず視線を落とし、唇の端で苦く嗤った。
「ねえっ。なんで? 誰が先生呼んだの?」
 腰に手を当てて二人を睨め付ける。犯人はすぐに分かった。殆ど表情の変わらない矢吹に対して、吉田は明らかに動揺している。目が合うと、吉田は一旦俯いた後、唇を尖らせて捲し立てた。
「いいじゃん別に俺何か昨日さあ、偶然俺先生に会って二人に会った話ししたら何か矢吹に会いたいっていうから連れて来たんだよ」
「ふーん。それで?」
「それでって?」
「それでビデオの事とかも全部喋っちゃった訳? あんた馬鹿じゃないの。信じられない」
 吉田の間抜けな表情から秘密の漏洩を確信した洋子は、舌打ちし、脱いだコートを頭に振り降ろした。その風は薄くなった田中雄三の頭髪を二センチ揺らし、黄色いウールの巻き付いた吉田の頭を見た矢吹丈一は、笑いを堪えて下唇を噛んだ。
「やめろよ」
「馬鹿じゃないの? 前から馬鹿だと思ってたけど。あんたそうやってみんなに喋ってまわってんじゃないでしょうね」
「喋ってないよ…。変態先生だけだよ」
「はぁ? やっぱりそうじゃん。信じらんない。ホント馬鹿。先生にそんな事喋ってどうすんのよ。馬鹿」
「あんまり馬鹿馬鹿言うなよ。」
「はぁ? だって馬鹿じゃん。ねえ矢吹君。馬鹿でしょ、こいつ」