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ファック・トゥー・ザ・フューチャー

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 空気が澄んでいる。富士山が見えるかと思ったが、見えなかった。いつの間にか、この町も変わった。畑しか無かった駅の南西に、最上階の外壁に番号が書かれた同じ造りのマンションが建ち並び、ゴミの分別と子供の教育に口煩い人間達が住み着いた。富士山は見えなくなり、コンビニと生ゴミと烏が増え、四軒あった銭湯のうち二軒が潰れた。少子化は進み、愛する一人っ子達には過剰な期待が掛けられた。町が変わって、人も変わった。父兄達に昔の大らかさがあれば、これ程までに落ちぶれる事も無かった。勘違いした中流の糞達が、こうやって日本中を変えていくのだろう。真夜中のエレベーターを降りてコンクリートの公園に集まる少年達は、いつかこの町をスラムに変えるかも知れない。
 まあいい。富士山なら、風呂屋の壁にもある。それにもしかすると、父親と一緒に来た全裸の少女が見られるかも知れない。

 硝子の引き戸を開けて目糞だらけの目を凝らすと客は大人ばかりだった。中でも、年寄りばかりがやたらと目立つ。嘗て賑やかだった年始の銭湯は、今や年寄り達の社交場だ。ケロヨンの広告の入った黄色い盥。脱衣所の煤けた木棚。ずっと変わらないと思っていた銭湯が、何時の間にか老人ホームに変わっていた。
 諦めて風呂に漬かると、死角になっていた洗い場の方から若い男が現れた。二十代後半の大男。両肩に見える入れ墨。豪快に掛け湯を被り隣に入ってきた男に、田中雄三は少し緊張した。思えば何千人もの生徒達が入学し、卒業して行った。有名人になった者はいないが、大手企業で重要なポストに就いている者や、道を踏み外して犯罪に走った者はいるかも知れない。今、隣にいるアウトローが、自分の教え子である可能性もゼロでは無い。二十一世紀。子供達が夢見た世界は来なくとも、子供達が夢見た自分になれなくとも、確実に時は町を変え、人を変える。何も変わらないと思っていた世界の中で、変わらなかったのは、実は自分独りなのかも知れない。
 先に上がった入れ墨の青年が立てた波が、顎の先で砕けた。たわわに垂れ下がった彼の陰嚢。温湯で紅く変色した背中の毘沙門天が、真っ直ぐに田中を見ていた。
 年老いて行く。
 卑屈に屈めた腰が、きっと近い将来曲がったままになり、加齢臭の染みついた汚い寝間着のまま、垢だらけの煎餅布団で冷たくなる自分を想像し、堪らなくなった。これから俺は何をすればいいのだろうか。首の皮一枚で繋がった学校では、出世どころか目立った行動の一つも出来ない。性癖の秘密を知った見合い結婚の妻は、もう二度と帰っては来るまい。どう生きるべきか。どう老いるべきか。そんな事は誰も教えてはくれない。そう考えた時、矢吹丈一の顔が思い浮かんだ。
 矢吹丈一。
 思えば今の田中雄三は、嘗ての矢吹と同じだった。目立たないように、揚げ足を取られないように、定年まで首にならないように、恩給を貰い損ねないように。意図的に存在感を希薄にして生きる自分は、彼と何ら変わりがない。
 矢吹丈一。
 彼は今、どうしているのだろうか。今年で三十位になっている筈の彼は、エリートサラリーマンか、それとも反社会的集団の一員か。それとも、子供の頃そうだったように目立たない人生を送っているだろうか。
 矢吹丈一。
 中流の象徴だった少年。その少年の驚くべき予言。彼は今も、未来を知っているだろうか。

 伸びきった無精髭を剃り、泡の立たない汚れた体を何度も擦った。風呂屋の富士山は夏で、青い湖には赤いヨットが浮かんでいる。女風呂にも富士が描かれているのだろうか。女風呂の富士は夏だろうか。女風呂に、少女はいるだろうか。矢吹は今、何をしているだろうか。
 体重計に乗ってみた。正月だというのに、二キロ痩せていた。田中は番台で牛乳を買い、少しずつそれを飲んだ。

 風呂屋を出てやっと、正月らしい事を一つした気になった。尻や脛の痒みが無くなり、浮腫んだ瞼が軽くなった。過ぎた過ちを悔やんでも始まらない。公務員をやっている以上は、餓える事も無い。寝た子を起こさないように気を付けて振る舞えば、何時かは皆、忘れるだろう。覚醒剤で捕まったおかまの歌手は、今や芸能界のご意見番だ。
「よしっ」
 体も綺麗になった事だし、家の掃除と洗濯でもしてみるか。餅の一つでも喰ってみるか。駅前のスーパーは、今日からやっている筈だ。そう思って歩き出した田中雄三は、ふと、レンタルビデオ屋の前で立ち止まった。家を出際にポケットに入れた葉書。褞袍のポケットからはみ出したその葉書には、レンタル一本無料特典が付いている。
「はは。まるで駄目人間の巻」
 田中雄三は小さく呟き、吸い込まれるように店内に消えた。
 
 日本語のラップミュージックが流れる店内。二十歳未満立入禁止と書かれた暖簾を潜ってアダルトコーナーに侵入する。目当てのブロックは一番奥の一番角。ロリータコーナーだ。ロリータとは言っても所詮合法ビデオの出演者は十八歳以上。目の肥えた田中にとっては子供騙しの偽物だ。まあいい。どうせ無料だ。つまらなければ、かえって家事に専念出来る。田中はパッケージの背表紙から、好みの少女を探した。五十代前半にして、まだ衰えぬ性欲。そもそも教師になった理由も、不純な物だった。
「畜生。貸し出し中かよ」
 不意に背後から野太い声がして振り返った。空のパッケージを手に舌打ちする男。冬だというのに項にはべったりと汗を掻いている。
「畜生。これもかよ。全部ねえじゃん…」
 彼の借りたいビデオは、悉く貸し出し中のようだ。田中は『少女監禁調教 もう帰らせてください?』を手に取り、満足げに歩き出した。豊満なグラビアアイドル隆盛の時代。テレクラや出会い系サイトによる少女売春の増加と、買春側を晒し者にする一方的な報道。ロリコン迫害の時代。ビデオレンタルに関して言えば、ライバルは減少傾向にあるようだ。殆どのロリコンビデオが、棚に残っている。
「畜生…。あれ?」
 視線を感じて振り向くと、青年が指差している。
「あ」
 その顔。確かに、見覚えがあった。
「先生?」
「吉田。吉田君か?」
「やっぱり。変態先生じゃん」
 野球が得意でクラスのリーダー格だった吉田日出男。何時もピンバッチの一杯付いた巨人の野球帽を被っていた。相似形で大きくなった彼が今、大リーグの野球帽を被って目の前に居る。教え子と再会する場所としては、ここは最悪の場所と言えた。
「大きくなったな」
「先生は全然変わんないね」
 元教え子の視線が降りてきて、見られた。テープの背表紙を上に向けていた事を激しく後悔した。左手に風呂桶。右手にロリータビデオ。羞恥の極みだ。
「先生まだそんなの借りてんの? 正月から風呂桶もってロリータなんて、ホント懲りてないね。元気だった?」
「まあ、相変わらずだよ」
「でもよく見るとやっぱちょっと老けたかもね。顔色も良くないし」
「まあ、そうかも知れんな。君の方はどうなんだ?」
「何にもいいことないですよ。不景気だし」
「そうだな」
「先生はいいじゃん。公務員が今、一番もてるんだよ」
「そうか。せめて二十年前にそういう時代が来て欲しかったものだな」
「やっぱあれ以来学校じゃ浮いてんの? まだいるんだよね」
「首の皮一枚ってとこだな」
「大変だね」
「まあな」