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ファック・トゥー・ザ・フューチャー

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 吉田は驚きに目を丸めた。
「バイトあるから」
「バイトって何やってんの?」
「ファミレス。文句ある?」
「ビデオは? まだもう一本あるよ」
「知ってるわよそんな事。馬鹿じゃないの。明日まで平気でしょ。明日また昼過ぎに来るから。そんときまでに書いといてね。矢吹君」
「え? 何を?」
 出会い系の女と同じだと思った。予定があるのに、言うのは直前だ。矢吹は半ばあきれ顔で、短くなった煙草を揉み消した。もし昨日セックスしていなければ、強烈な怒りが込み上げた筈だ。しかし今日の矢吹の心と陰嚢には、大きな余裕があった。
「何をって脚本に決まってんじゃない。とぼけないでよ」
「え? ああ」
「いいの書いてよ」
「まあやってみるよ。でも今日一日じゃ…」
「全部じゃなくてもいいのよ。大体のストーリーだけで。どっちかっていうとホントは全部の方がいいけど。やばっ。行かなきゃ。じゃあね」
 大慌てで黄色いコートを羽織り、煙草をポケットに仕舞う洋子を、二人は呆然と見ていた。靴を履く為に尻を突き出すように腰を屈めた洋子。ブーツのチャックを上げる洋子を、矢吹は出会い系の女のデジャヴのようだと思い、吉田は充血した目を大きく開き、真っ直ぐにその尻を視姦していた。

「なあ。あいつぜったいさっきウンコしてたよ。そう思わねえ?」
「それで何か機嫌悪かったのかな。便秘とか」
「やっぱり。そう思うだろ? 俺ぜったいウンコだと思うよ。ウンコだよあれぜったい」
「そっか」
 口の端に泡を溜めながら話す吉田は、会話に餓えていた。二人は、二十一世紀になって遂に初めて、同級生らしい会話を始めた。
「でもホントこれ不味かったな。っていうか訳分かんない味じゃねえ? ビーフ何だっけこれ」
「何だっけ、俺も忘れちゃった」
「普通忘れるよな。ぜったい忘れるよ。訳分かんねえもん。あいつも全然変わんねえよな。ホント。変な女だよ。ホント」
 そう言って、吉田日出男は思った。訳の分からなさでは、矢吹の方が数段上だ。お前はホント変わんないな。と、同級生としては言いたい所だが、変わったかどうかすらも分からない。昔の矢吹の記憶が吉田にはまるで無いのだ。しかし、その事がいっそう矢吹をミステリアスにしていた。天才や超能力者は、きっとそういうもんだろうと、吉田は妙に納得し、今後始まる何かへの期待に胸を焦がした。
「なあ。これからあれ書くの? 脚本」
「まあ…。とりあえずやってみるよ」
「なあ。でもどうする? あいつアイドルビデオかテレビドラマのつもりでいるぜ。無理じゃねえ? もう三十だぜ」
「そうだね」
「俺はやっぱあいつだったら痴女物がいいと思うな。何かこう夜中とかにいきなり男襲うみたいな。どう? その方があいつ似合うよぜったい」
 暗闇で男を誘惑する洋子を想像した吉田は、同時にその時の自分の演技を考えて首を捻った。観る側の立場と演じる立場。そんな違いを初めて感じた。今日、二人に会わなければ、そんな事を考えるなんてあり得なかった。きっと将来、今日のこの日が自分にとって特別な日になる気がした。二千一年。誕生日の次の日。
「痴女物か…。ちょっと考えてみるよ」
「ホント?」
「うん」
「でもぜったいそれがいいって訳じゃないから全然気にしなくていいよ」
「うん」
「なあ」
「なに?」
「矢吹。でいいかな。呼び方」
「いいよ」
「おれの事も呼び捨てでいいよ」
「うん」
「じゃあ、俺も、なんか時間ないし監督さんの邪魔しちゃ悪いから、そろそろ行こうかな」
「え、うん。分かった」
「なあ」
「うん?」
「俺も来ていいかな。明日」
「勿論、いいよ」
「じゃあ、頑張ってな」
「うん」
 便所の前で鼻を鳴らし、戯けるように顔を顰める。踵の潰れたスニーカーを引っ掛けながら、吉田は最高の笑顔で、指の欠けた手を振った。



 独りになった部屋。矢吹は俯せになって枕を叩いた。笑い過ぎて、息が出来ない。涙が次々と溢れ、世界が歪んでいる。アイドルになりたかった女とプロ野球選手になりたかった男のセックスを、映画監督になりたかった自分が撮影する。三十年間の自分の笑いが、全て嘘や芝居に思えた。本当に可笑しい時、人間は涙を流して呼吸を止める。ベッドの上に女の髪を見付けるだけで、綺麗にビーフストロガノフを平らげた皿を見るだけで、様式便所の蓋が閉まっているのを見ただけで、一晩中矢吹丈一は、笑い転げる事が出来た。ノートを千切りながら、鉛筆を削りながら、矢吹は何度も呼吸を止めた。



 まだ午後三時過ぎだというのに、紅く街を染め上げた冬の陽射しの中を、吉田日出男は小走りに進んだ。サイドステップで擦れ違う自転車を躱し、若い女を追い越し際にちらりと振り返り、ポケットの中のアパートと実家と盗まれて今は無い自転車の鍵を鳴らしながら、青信号が点滅する横断歩道を渡り、レンタルビデオ屋に駆け込んだ。やはり我慢が出来なかった。このままでは眠れない。2001年宇宙の旅では、躰を軽くする事が出来ない。入口の新作ビデオコーナーに群がる人間共を掻き分けて、二十歳未満立入禁止と書かれた暖簾を潜った。借りたいビデオは既に決まっている。それはセブン。
 変態性欲痴女?



 誰かが生ゴミを捨てたのか、小窓の外で烏が煩い。安酒を飲み過ぎたせいだろうか。小便がいつもより黄色い。
 田中雄三は便器に痰を吐き、伸びた爪で腹を掻いた。石油ストーブの上で銀杏が弾ける音。このごろ小便の切れが悪くなった。異臭を放つ濡れた陰茎を振って、五日間着替えていない寝間着のズボンとブリーフを同時に上げた。
 埃の浮いた冷や酒と銀杏。腹が減ったら永谷園の鮭茶漬け。乾燥して象の皮膚のようになった脛を掻き毟ると、ぼろぼろと垢が零れ出し、綿のはみ出た座布団の上に落ちた。
「あ」
 耳を澄ます。
 子供の声。少女の声。
四つん這いで窓に近付きカーテンを開けると、六歳位の男の子が二人でボールを蹴っている。今の子供達には野球よりもサッカーの方が人気らしい。
「なんだ…、男か…」
 落胆して四つん這いのままバックした爪先が、コップ酒をひっくり返した。慌てて口を付けようとした座布団の上の、蛆の死骸のような垢を見て、田中雄三は風呂に行こうと決めた。
 外の光が眩しい。北風が目玉に当たって、悲しくもないのに涙が出た。乱反射した光が、揺れる。それが何だか新鮮で、田中は流れる液体をそのままにした。冬休みに入ってからというもの、生の実感がまるで無かった。いつもの事だ。教師特有の長い休暇は、春夏秋の三回、田中を廃人にした。