無鉄砲アピール
しかし、こんなときほど祈りは天に届かないものだ。自転車は駐輪した場所で、微動だにせず待っていてくれた。
そして自転車で元来た道を帰っていった。
前回と違い、苦痛を知っている分、最初から暗い気持ちで自転車に乗った。飛ばさないようにペース配分を気をつけた。
行きと同じように、途中から疲労困憊になり、帰りの道中をほとんど覚えていない。けれど、松山市に入りかけのところで、意識が朦朧としてガードレールにぶつかりそうになって、肝を冷やしたのを覚えている。やはり人間は恐怖などの強い感情を忘れないらしい。
帰りは『DISCOVERY』を聴かなかった。
この旅で嫌なものを発見してしまい、これ以上は何も知りたくなかったからだ。
結局、自分探しの旅で見つけた自分は、強くもなんともない、思っていたよりもずっと情けない自分だった。
そして俺は決意した。準備を大切にしよう、と。
かくしてこの旅は、俺の中で黒歴史となり、君子ちゃんに伝えられることはなかった。
そんな経験をして自分の愚かさが骨身に染みた俺は、決意したとおり、準備というものを大切にするようになった。
それまで試験は一夜漬けが多かったのだけれど、きちんとノートを取り普段から予習もし、先輩から過去の試験問題を拝借し、試験の一週間前には試験勉強をするようになった。
そのおかげで成績はトップクラスになり、就職も、推薦でそこそこ名の知れた会社に入ることができた。
社会人になってからも、万事そつなく仕事をこなした。準備をしっかりしたからだ。営業の前には、先方様のリサーチは欠かさず、大事な企画のプレゼンテーションでは、資料集めや予行練習をしっかりして臨んだ。
何事も準備をしっかりしておけば、大抵のことはなんとかなる。そう思うようになっていた。
しかし、ある日、大きなものを失った。
君子ちゃんだ。
ある日、君子ちゃんに、よく二人で行く喫茶店に呼び出された。そして突然、振られたのだ。
何が何やらわかっていない俺に、君子ちゃんはこういった。
「なんか小さくまとまっちゃったよね。昔の今村君のほうが好き」
なんの予告もなく別れを告げられた俺は、準備をすることもできず、君子ちゃんが喫茶店を出るのを何もできずに見送る結果となった。
呆然と座り尽くしている俺に、誰かからメールが来た。見ると君子ちゃんからだった。俺は食い入るようにメールを見た。
『昔の今村くんなら、こんな不測の事態でも、とにかく行動してたけどね。本当にいなくなっちゃったんだね、あの今村くん。さよなら』
俺はなんどもその文面を読んだ。どこかに復縁の可能性が残されていないか、よく読み込んだ。そして、その可能性はどこにも残されていないことに気付くのに、次の日の朝までかかった。
明け方、六時、眠れずに過ごした布団の上で、俺はようやく理解した。もう君子ちゃんとは終わってしまったのだということを。
「そんなに昔の俺のほうがよかったのかよ」
俺は中空の君子ちゃんに毒づいた。
「昔の俺より、今の俺のほうが、男としてしっかりしてるのに、見る目ねえな」
そう吐き捨てた瞬間、果たしてそうだろうか、と思い直した。
なぜなら今の俺は、別れを告げられたあの喫茶店で、去り行く君子ちゃんに何もできなかったからだ。
昔の俺なら、どうだったっけ。君子ちゃんは、こんな不測の事態でもとにかく行動していた、とメールでいっていた。俺は、本当は、弱くなってしまったのだろうか。
あの苦しい道中、した決断が正しいのかどうか、わからなくなってしまった。
わからなくなってしまったまま二週間が過ぎた。その間、俺は人生のどん底にいる気分だった。立ち直ることは不可能に思われた。
仕事から帰り、何度も読んだ君子ちゃんからの最後のメールを読んだ。あの後、メールを送ってはみるものの、返事はない。
『昔の今村くんなら』
冒頭のその言葉を見る。君子ちゃんは昔の俺が好きなのだ。彼女とよりを戻せるのは昔の俺だけか。
そのとき、ふと思った。
俺はもう一度、過去の俺を取り戻す必要があるのではないか、と。
そのためには、あのときのような無鉄砲なまま、松山‐今治間を走破し、且つ橋を観てから帰らなければならない。
それができなかったから、俺は当時の俺を否定したのだ。逆にいえばそれができたとき、俺は、無鉄砲な俺を受け入れられる気がする。
あれから自転車はスポーツサイクルに変わり、休日になれば、松山の一級河川である重信川に沿って伸びるサイクリングロードを、二時間ぶっとおしで走っている。だから以前よりも体力には自信があった。
あのときのように気が向いたとき、それでも同じ土曜日がいいだろう。一日で行って帰れるとも限らないから、土日休みの会社に勤めている俺は、一泊できるように。
一日で松山まで帰って来られればベストだが、そこに拘らなくてもいい。あのとき俺の自信を根こそぎ奪った最大の要因は、橋を観に行けなかったことだ。そして友人たちに嘘をついたことだ。あの壮絶な敗北があったから俺は、それまでの自分の生き方を変えなければいけないと過度に考えたのだ。そして、自分のよさを完全に消してしまったのだ。
目的は橋を観ること。漫画の主人公みたいな考えだけれど、俺はそうやってもう一度、俺を取り戻す。
そして、決戦の日は思ったよりも早く訪れた。
決意をしたその週の土曜日だった。とても気持ちのいい目覚めだった。
よし、行こう。
起きた直後に決めた。
だがその前にすることがあった。携帯を持ち、覚悟を決める。そして、君子ちゃんに電話を掛けた。
「俺、これからママチャリで今治まで来島海峡大橋観に行くから。さっき行くことに決めたんだ」
返事も聞かずに電話を切ると、急いで準備をした。
まず自転車。これはママチャリでなければならない。あのときママチャリだったのだから、今回もママチャリだ。そしてペットボトルのミネラルウォーター三本にキャラメル二箱。これも同じ。
あのときと同じ条件で走破してこそ意味があると思えた。
ただ朝飯だけはしっかり食べた。
仕事があるので、会社に迷惑が掛かるようなことになってはいけないと思ったからだ。
コンビニで必要なものを揃えると、俺はママチャリに跨る。
あの日はだめだった。俺の自信を根こそぎ奪ってしまうほどに。だけど、今度こそ。
俺はあの駅に戻り、放り捨てたものを拾いに行くのだ。
「おっし、待ってろ、来島海峡大橋!」
そう叫ぶと、元気よく飛び出した。
気分はよかった。けれど、けっして気を抜かなかった。今回はそれだけの距離があることを自覚していた。
一時間が過ぎ、俺はまだまだ元気だった。流れる景色を楽しめていることで、心に余裕があることがわかった。
一時間半が過ぎようとした頃、今治まで25?の道路標識が見えた。自分でも驚くほどのとてもいいペースだ。
そして二時間が過ぎた。普段からトレーニングしているせいか、二時間走っても、あのときのような苦しさはなかった。疲れはあったが、疲れよりもやってやるという心意気の方が先行した。
作品名:無鉄砲アピール 作家名:颯太郎(そうたろう)