Wish
『ごめんな。まだ、俺、そっちには行かれへん』
笑顔を残し、航は“声”のする方へ駆け出した。
―――――――――――――――
倒れた航はそのまま検査室へ運ばれた。三十分前の事だ。今は、姉の隣の病室にいる。付き添いは慎太郎。祖父母は姉と航の容態の説明を受ける為、別室へと呼ばれた。姉には、猪口氏が付いている。
「お前、こんなんで、よく弾いてたな……」
意識の無い航に、慎太郎が囁きかける。倒れ込んだ航と一緒に受け止めたギター。弦が二本、切れていた。一本目は多分、お祖父さんといる時。曲調が変わったと感じた、あの時だ。でも、二本目は……。いつも聴いている慎太郎が横で聴いていても気付かない程、自然に移調して引き続けたというのだろうか……。
「凄ぇよ、お前……」
眠っている航の目元にかかる前髪を払ってやり、ふと、ベッドの脇に立て掛けたままの弦の切れたギターを手に取る。
「……えー、と……」
日頃の航の姿を思い出しながら、見よう見まねでギターを構えてみる。
“♪”
「おぉっ! 鳴ったよ!!」
と、自分で驚く慎太郎。鳴るのは……当たり前である。
「……この辺を押さえるんだっけ……?」
左手で弦を押さえつつ、右手を動かすと
“♪”
先刻と違う音が響く。
「面白れー」
更に左手の位置を変えて……。
“♪”
と、視線を感じ熱中していた慎太郎が顔を上げる。真っ黒な瞳が驚いた様にこっちを見ていた。慌ててギターをベッドの脇へと戻す。枕の上の顔が、ギターを見て、慎太郎を見て……笑った。
「どうせ、下手くそだよ」
慎太郎が、ふて腐れる様に両手を頭の後ろに持って行く。そんな慎太郎を見て、航が首を振った。あたりをキョロキョロと見回す。
「ほら!」
感付いた慎太郎が、ベッドの脇のワゴンの上からメモを渡す。
『なんで、ベッド?』
「倒れたんだよ、お前」
記憶にないのかよ! と笑いながら答える慎太郎に、そうなの? と首を傾げる航。
『ギターの音で、目が覚めた』
「下手で?」
笑いながら受ける慎太郎に、航が又もや首を振る。
『シンタロの声と同じ音がしたから』
「音って……」
『シンタロが呼んでると思った』
そして、また、にっこり。が、次の瞬間、
『姉ちゃんは?』
心配そうな顔になる。
「大丈夫だってさ。猪口さん、だっけ? ……が付いてる。彼氏?」
頷く航。
「あの人、お姉さんの事“大事な人”って言ってた」
思い出したように微笑む慎太郎に、航が再び頷いた。
―――――――――――――――
「……という事ですわ……」
がっくりと肩を落とす祖父の言葉に、
「そうですか……」
猪口氏が深刻な顔をして頷く。
「気ぃ落とさんといて下さい。万が一、航くんに何かあっても、帆波には僕が付いてますさかい」
「おおきに、ぼん……」
祖父が頭を下げる。
「“ぼん”はやめて下さい」
「そやかて、御店の後取りやないですか」
「ここでは、帆波の彼氏です」
恥かしそうに猪口氏が頭を掻いた。
と、隣りの病室からギターの音。
「え!?」
三人同時に、病室の方へ耳を傾ける。
「航くんが気ぃ付いたんやったら、航くんにもちゃんと許可を貰わなあかんな」
行ってみましょかと隣りの病室を指差す猪口氏。
三人は、帆波の病室を後にした。
―――――――――――――――
『スゴク良い人』
「そっか……。お姉さん、幸せだよな」
航が笑顔で頷いたその時、廊下に足音が響いてきた。祖父母が医師の説明から戻って来たのかと思い、二人揃って声のする方を見る。廊下で話し声がして、ドアが開く。祖父の後に祖母、その後ろに猪口氏。
「気ぃ付いたんか!?」
祖父母が嬉しそうに駆け寄る。余りの喜びように、首を傾げる慎太郎。ベッドに身体を起こしていた航が頷いた。
「……後は、航くんの許可だけやな」
と、猪口氏がベッドの脇に屈みこんだ。何事かと、航の瞳が丸みを増す。
「俺、帆波のそばに付いててもええやろか?」
祖母に手を握られていて、ペンが使えない。
航は慎太郎を見た。
「お願いします。だろ?」
慎太郎の言葉に、航が大きく頷く。
「良かった……」
猪口氏が胸を撫で下ろす。彼女の可愛がっていた弟にダメ出しをされたら、どうしようもなくなっていたところだった。
「帆波な、もう、身体は大丈夫やねんて。後は、意識だけ……」
隣りの病室に視線を向けて、猪口氏が言う。
「何か“きっかけ”があれば、それで目が覚めるやろうって……」
そう言った微笑みが淋しそうだ。
「君の“声”も、な」
「喋れるようになったら、戻っておいない」
「京都(ここ)が“家”やねんから」
祖父母の言葉に、航が慎太郎を振り返った。黙って頷く慎太郎に、航が戸惑うように頷く。
「ほな、帰りますって医師(せんせい)方に言うてくるさかい、ちょっと待っといて」
祖母が、握っていた航の手をポンポンと叩いて言い、祖父が同じ様に頭を撫でた。
「俺は、朝まで帆波に付いてます」
「そうしてやっとくれやす」
祖父母が頭を下げ、三人は部屋を後にした。
『俺』
三人が出て行ったと同時に、航が書きかけたメモを慌ててペンで塗りつぶした。
「何?」
不審そうに覗き込む慎太郎に、
『帰ったら、弦、張り直さないと』
航がメモを書き直す。
「……だな」
月が、窓の向こうに高く上がっていた。
――― その後、結局、検査だ何だと二日共病院通いになってしまった。
「良かったよ。土産、買った後で」
三日後の新幹線のホームで、ペロリと舌を出して慎太郎が言った。隣りで航が片手を振り上げている。
「お前も、何ともなかったしな」
その言葉に、振り上げていた手を慎太郎の肩へ持っていき、嬉しそうにパタパタと叩く。
「すぐに始業式だな」
『明後日?』
「だな」
『クラス替えある?』
普通、中二から中三はないのだが……。
「あぁ、あるよ。うちは毎年」
頷く慎太郎に、航が自分と慎太郎を何度も指差す。
「なれるといいな、同じクラス」
“うんっ!!”
慎太郎の笑顔に笑顔で頷き、航がストラップを指差す。
「木綿花も?」
頷く航。
「……だな」
暖かい陽射しの中、二人は京都を後にした。