愛と引きこもり
唇と唇が、軽く触れた。固まる直樹をよそに七海がちゅ、ちゅ、とついばむようにして何度か唇に口づけてくる。頬に彼の髪がかすめる。恐る恐る太腿の上の手そ握ると、七海の身体がびくりと跳ねた。
これは、いいのかな。
そう、直樹が期待しかけたとき、七海がなにごともなかったかのように身を話した。
「え、あの……ななみちゃん……?」
「前払いです」
強い調子で、彼はどきっぱりと言い放った。なんの前触れも伏線も兆候もない、むしろべつの兆候がなくなったことに激しく落胆した直樹はぽかんと口を開けてしまう。今ならアシカショー的なものができそうだった。愛しの七海に間抜け面を晒している恥を感じられる余裕すらない。
「……へ?」
「ご褒美の前払いです。俺、知ってますから……明日締め切りなの」
そわそわから、どん底に突き落とされた。さきほどのごみ箱が頭をよぎる。さしずめ自分は古新聞、七海は爪切りだかごみを捨てる人。せっかく思い出さないようにしていたのに、うっかり現実を突きつけられてしまった。そもそも、爪を切ろうと思いたったのも現実逃避の一環である。
おずおず、殿様に伺いをたてる家臣かのごとく直樹はもみ手をした。二人きり、同居の利点がここにあるような、ないような。
「内金にはならないですか、七海さん……」
「なりません。……ならないですけど」
やわらかくなっていく言葉尻に目を輝かせ、直樹は七海を仰ぎ見た。彼は重たくため息をつき、それから隣に腰かける。
「就業態度によります」
小さくつぶやきながら、七海がこてんと頭をこちらに預けてきた。就業態度がいいということは、締め切り余裕クリアということか。
肩ごしに七海の呼吸のリズムを感じた。あれが内金になるなら、今度は。
瞬時に、直樹はやる気になっていた。七海は、本気で飴と鞭の使い分けが、うまい。
愛と誘惑
肩くらいまでの、指通りのよさそうなさらさらの髪の毛が好きだ。
そう七海に言った覚えはたぶんなかったが、彼は直樹好みの綺麗な髪をしていて、以心伝心かとときめいた。しかし、「先生とバイト」期間が長かったのが災いしてか、それらしい雰囲気に持ち込むのが難しい。別段困っているわけではないのだが、たまにもどかしい思いをすることもある。なにより直樹には「自然ないい感じ」に持っていく技能など皆無だった。