竹の花
身の回りの物だけを持って彼の家を訪ねると、彼は快く自分を迎え入れてくれた。
「君が来てくれて嬉しいよ。僕一人にはこの家は広すぎる」
莫大な財産を受け継いで、使用人など雇おうと思えば何人でも雇えるのにも関わらず、彼は他人が生活に干渉することを嫌って、広い家に一人で住んでいる。いったい家のことはどうしているのかと聞けば、週に一度掃除婦と庭師が通って来るだけで、他のことは全て自分でやっているのだと言う。それを聞いて、自分は感心してしまった。
幼い頃はよくお互いの家を行き来していたから、大体の勝手は知っている。広い家の中を探検したり、隠れ鬼をしたりして遊んだものだが、当時どうしても入れて貰えない部屋があった。彼の祖父の部屋である。勿論、子どもゆえの好奇心には勝てず、何度もこっそり入ろうとしたが、どういうわけか運悪く毎回見つかってしまい、その度に大目玉を食らう羽目になった。その記憶があったため、彼の家に滞在し始めてから一週間が経って、祖父さまの部屋に入ってみるか、と聞かれた時には驚いた。本当に構わないのか、と問うと、
「いいとも。もう祖父さまも怒るまい」
と言って、自分をその部屋に招き入れた。
その部屋に一歩足を踏み入れた途端、自分は圧倒された。壁が、天井まで届く高さの本棚で埋め尽くされている。その壁を埋め尽くした本棚はまた、本で埋め尽くされていた。
窓に向かって、重厚な机が置いてある。年季が入っていることが一目で見て知れた。
「三年前に祖父さまが亡くなった時の状態がほぼ保ってある」
そう言う彼は、少し誇らしげだった。
自分は、本棚に納められた大量の本を眺めたり、取り出して頁を繰ったりして楽しんだ。外国語で書かれた本は流石にお手上げだったが、彼が丁寧に解説してくれた。
しかし、暫くすればそれにも飽きる。話題は自然と、自分を巻き込んでいる事柄へと移って行った。
「竹の精が家を出ろと言うから出てみたが、これで何かの解決になったのだろうか?」
自分が言うと、彼は唸って、
「竹の精は君を守るようにお祖母さまから頼まれたと言っていたのだろう? では、その恐ろしいことが起きることをお祖母さまは予感していたのであって、それならその恐ろしいことの起きるきっかけにお祖母さまは関わっていたのではないか、と考えることができる。……だから、ええと、君のお祖母さまを信じるしかないと、僕は思う」
でも、まあ、と彼は続けて、
「何も心配せずに、好きなだけうちにいるといい」
そう言って、笑った。
「ありがたい。恩に着る」
感謝の気持ちを表す言葉がもっと他にもあればいいのに、と自分は思った。いや、実はそうではなく、自分がそれを知らないだけなのかもしれなかった。
「……そういえば、妙なことがあるんだ」
彼は、ふと表情を曇らせて、本棚に差してあった一冊の薄い本を抜き出した。完全に変色してしまっていて、大分古いことが窺える。表紙には日付が書いてあった。
「祖父さまの六十年前の日記なんだが、ほら、ここを見てくれ。頁が切り取られている」
彼が本を開いて見せてくれた所を見ると、確かに数頁刃物で切り取られた跡があった。
「日記を切り取るなんて、余程のことが書いてあったに違いない」
自分が言うと、彼は首を傾げて、
「ちょうど僕達の祖父母が亡くなった年のことだ。何か関係があると思っていいだろう。……切り取った部分はどこへ行ったのだと思う?」
と質してきた。
「捨てたか、もしくは仕舞い込んだかのどちらかだろう。もし仕舞い込んだのだとしたら……、どこか心当たりのある場所はないのか?」
「一つだけある」
彼は机の抽斗を指し示した。
「鍵か掛かっているんだが、肝心の鍵がない。これでは手も足も出ないよ」
「思わせぶりに切り取られた日記に、鍵の掛かった抽斗。見つけてくれと言わんばかりじゃないか?」
まるで三文小説を読んでいるようだ。自分は思わず苦笑してしまった。
「祖父さまはそういう遊び心も持った人だったからな……。さて、肝心の鍵の在り処だが」
彼は、やれやれ、と頭を振った。
「六十年越しの挑戦だな」
盛大な溜息が、お互いの口から洩れた。
やる気を出したのはいいものの、どこから手を付けたら良いものかわからず、ぐるりを取り囲む本棚を見回して、再び溜息を吐く。
しかし、そんな倦怠感に浸っている間もなく、案外簡単に鍵は見つかった。机の裏に貼り付けてあったのである。
「灯台下暗しとはこのことかな」
などと軽口を叩きながら、自分は鍵を取った。
鍵を鍵穴に差し込む。と、何の抵抗もなく吸い込まれていった。右に回すと、小気味良い音を立てて、鍵が開いた。
「これで目当ての物がなかったらどうする?」
抽斗の取っ手に手を掛けて、彼が言う。
「その時は大人しく負けを認めるさ」
そんなに潔いことはできないだろう、と内心で思いながら自分は言った。
彼の手が抽斗を開けた。中には紙が数枚入っていて、その紙はあの日記帳と同じものであった。
「大当たりだ」
自分達は、にやりと笑って顔を見合わせた。
切り取られた日記帳に書いてあったのは、次のようなことであった。
誰だかわからない貴方へ
『後世の誰かが読むことを期待して、私はこれを記す。自分の罪を誰かに知らせたいという、そのような私の醜い自己顕示欲を満たすためだけにこの告白文を貴方に読ませてしまうことを許して欲しい。本当は心の中にだけ仕舞っておくべきなのだろう。しかし、二人もの人間が鬼籍に入った今、あれら一連の出来事をどこにも記さないでおくことには耐えられそうにない。私がこれを書くことが誰かの救済に繋がることを願うばかりである。
私は妻を持つ身でありながら、別の女性と関係を持った。しかし、言い訳をさせて貰うならば、私とその女性とは結婚前からそのような関係にあったのである。この結婚は私の両親と妻には非常に申し訳ないが、不本意であったということを、一言申し添えておきたい。相手の女性もまた、別の男性と結婚した。彼女の夫を私は知っているが、彼は人柄、地位ともに申し分ない立派な人間である。私の妻もまた、美しく聡明で、人間として申し分なかった。私も彼女も、それぞれに幸せな家庭を築くことができたはずなのである。
話が逸れた。ここでは名誉のことを考えて、彼女の名前は出さないでおこう。責めを負うのは私だけで十分である。……ああ、ここでも醜い自己犠牲の精神が顔を覗かせた。
本題に移ろう。私がここで告白したい事柄は、私と彼女の間に子どもが出来てしまったということである。可能性については考えなかったわけではないけれども、いざ知らされた時は衝撃であった。
その子どもが、彼女と彼女の夫の子ではないということを私は知っている。何故なら、彼女は彼女の夫を拒んでいたからである。
当然、彼女の夫は私と彼女の関係を知っていた。子どもが私と彼女の間の子だということも知っていた。知っていながら、寝取られ男の汚名を着せられるのを恐れて何も言えなかったのだろう。私はそのことで奇妙な優越感に浸っていた。そんな自分を、私は嫌悪せざるを得ない。
肝心の子どもは先日生まれた。死産であった。