竹の花
彼女は泣いていた。涙の理由を私は尋ねることができなかった。
どんな手続きを踏んだのか、或いは踏まなかったのかはわからないが、子どもは墓に埋葬されずに彼女の家の裏の竹林に埋められたと彼女から聞いた。ひょっとすると、彼女や彼女の夫の実家に、彼女と私との関係が露見してしまったのかもしれなかった。彼女はそのことに関して何も言わなかった。
そして、私の妻と彼女の夫が死んだ。事故死と病死であった。これ以上のことは書くに堪えない。
私にはこれら一連の出来事が、竹の花が咲いたことと関係があるように思えてならない。偶然と捉えるのには、あまりにも、誰にとっても不幸すぎはしまいか。あの二人の死は、私達の子どもの呪いによるものなのかもしれない。私のように学問に携わる者が、呪いなどという言葉を使うことを貴方は笑うだろうか。
何よりも積悪の余殃(よおう)で、子孫に害が及ぶことが一番恐ろしい。おそらく次は、六十年後であろう。次に竹の花が咲くはずの年である。私の孫の世代であろうか。自分が誰かの祖父になることなど想像もつかないが、いつかそんな日が来るのかもしれない。
これを書いたところで、いったい何になるのかわからない。読んだ貴方にも、きっとどうすることもできないだろう。
ただここに、過ちを犯した馬鹿な男がいたことを知っておいていただきたい。』
その夜、再び竹の精が夢枕に立った。
何も言わずに、悲しげな瞳で自分をじっと見下ろしている。皺深い手を伸ばして、老婆は自分の頬を撫でた。その手の冷たさに驚いて、どうかしたのか、と自分が問うより早く、老婆は消えてしまった。
朝起きると、枕元に見覚えのない紙片が置いてあり、そこには短い文が書かれていた。
『私は自分の務めを終えました。つきましては、あなた様のご多幸をお祈り申し上げます。』
どこか心許ない筆跡で、それでも一生懸命書いたことのわかる手紙であった。
目を瞑ってみる。あんなに近くで見たにも関わらず、自分は竹の精の顔がよく思い出せないのだった。祖母にどこか似ていたことは確かである。しかし、どこが、と言われるとうまく言葉にならない。顔の輪郭はどうだったろうか、丸顔か面長か。目の色は黒か茶か。鼻は高かったか低かったか。何もかもがはっきりとしない。覚えているのは、あの見事な白髪と灰黄色の着物だけである。
喉の奥の方に何かが詰まったような、そんな息苦しさを覚えた。目の奥が熱い。自分が涙を流しているのだと気付くのに、暫く時間が掛かった。遥か昔、子どもの時に抱いた、愛しさと寂しさと悲しさが綯い交ぜになった感情が胸を塞ぐ。その感情がどこから来るのかはわからなかった。ただ、あの老婆にはもう二度と会うことはないのだ、とそれだけはわかった。
「どうかしたのかい。落ち着かないようだね。何か気になることでもあるのかい?」
遅い朝食を取っている時、彼は言った。確かに、朝起きてからずっと胸騒ぎがして止まないのだった。おかげで箸も進まない。そのことを伝えると彼は、ふむ、と一つ頷いて、
「あの竹林に何かあったのかもしれない。様子を見がてら君の家にも行ってみるといい。もう一週間空けているんだ。何かあったとしてもおかしくはない。僕も一緒に行こう」
自分の家は無残に潰れていた。土砂に埋もれて、原型を留めていなかった。家の裏手の山が崩れたのである。
ただの災害でここまで破壊されることはないだろう、と思えるほどであった。
「もし家にいたら、俺は死んでいたな」
自然と、自分の声も強張る。家が無くなったことがなかなか信じられずに、自分はただ茫然とするばかりであった。だから、彼が竹林の方へ行きたいと言っているのにも、なかなか気付いてやることができなかった。
家の裏手に回ると、竹林全体が枯れているのが遠くからでもわかった。声も出せずに、自分は立ち尽くすしかなかった。
「土を支える根がなくなったことで地盤が緩んで、土砂崩れが起きたという説明がつけられなくもない」
と、彼は言った。
「いや、きっとそうだろう。だけど、これがただの偶然だとは僕も思わないよ」
あの老婆は、このことを警告していたのだ。自身の命が尽きるその時まで、自分の身を案じてくれたのだ。自分は、生まれる遥か以前、六十年も前から祖母に守られていたのだ。そのことに、やっと気付くことができた。自分は崩れた山の方に向かって歩き出す。
「君、どこに行くんだ! そっちは危険だ!」
彼が自分を呼び止める。しかし、自分はどうしてもそちらへ行かなくてはならない、という使命を帯びたようになっていて、足が止まらない。履物が土塗れになるのも構わず、自分は歩き続ける。
左足の爪先が何か固い物に当たった。その正体を確かめるべく、自分はそれを拾い上げて、土を払う。滑らかな陶器の肌が姿を現した。ああ、このために祖母はあんなにも厳しく自分に竹林に入ることを禁じたのだ。
「それは……、骨壷じゃないか」
彼が追い付いて来た。
「例の子どものものに間違いない」
自分は言って、骨壷を彼に渡した。彼は恐る恐るそれを受け取った。
「ちゃんとした墓に入れてやろう。それがせめてもの供養だ。君のお祖母さまもそれを望んでいるだろう」
その小さな骨壷を愛おしそうな手つきで撫でている彼の言葉に、自分は深く頷いた。
どこかもの寂しさを感じさせる冷たい風が、耳元を吹き抜けていった。
竹の開花周期については諸説あり、定まっていないそうで、よって、作中に出てくる記述にも不正確な点が多々あります。ただ、モウソウチクは六十七年、マダケは百二十年というのがよく言われているようです。「竹の花が咲くと不吉なことが起こる」というジンクスに心惹かれてこの題材を取り上げたわけですが、本当に好き勝手なことをやらせていただきました。書いていて大変ながらも楽しかったです。読者の皆様にも楽しんでいただけたのなら、これに勝る喜びはありません。
では、あとがきに代えて。