猫と二人- two persons with cat -
こうして小さな言い争いから、二人は些細な口喧嘩になる。仲が
悪いわけではない。どちらかというと、仲は良い方だ。だが、恋人
といっても他人なのだ。主義主張が正確に一致しているわけがない。
全て同じだったら、それはそれで気持ちが悪い。きっと、自分とは
違う他人だからこそ一緒にいるのだ。一緒にいたいと思える。ただ、
こういった場合、大概は美樹田の方が自らの主張を引き下げる。不
毛な争いが残すものは、5パーセントの優越感に45パーセントの
虚しさ、そして残り50パーセントの疲労感しかない。葉月にそん
な想いをさせたくない、そう美樹田は考え、お互いが引き下がれな
いギリギリのラインで身を引く。いつだって平和主義者の美樹田だ
が、そもそも本当の平和主義者だったら、争い自体が起こらない。
そんな事で、今回も美樹田の方が積極的に身を引いた。
「あのさ、えっと、悪かったよ。取り敢えずさ、もう一度落ち着い
て、二人で考えよう。ギュスタフも……、うん、悪くないかもしれ
ない」
「ティッシュ……」
「え?」
ドキリとした。もしかして泣いているのだろうか。それとも、『テ
ィッシュ』という名前の提案だろうか。
「だからティッシュ! はやく! この子、ウンチし始めたの!」
「あぁ……、そういう事……。えっと、ちょっと待ってね……」美
樹田は安堵した。葉月が泣いている事に比べれば、猫の糞の一つや
二つどうという事はない。しかし、人様の家で勝手に糞をするとは、
何という猫だろう。一瞬、『フンボルト』という名前にしてやろうか、
などと考えるが、間違いなく葉月に否定されるので、一瞬で浮上し
てきた思考は表に顔を出すことなく一瞬で沈んでいった。
「確かこの辺に……」美樹田は落ち着いて平積みになっている雑誌
の隙間からティッシュ箱を取り出し、箱ごと葉月に手渡す。「はいど
うぞ。間に合った?」
「ありがと。大丈夫、何か、この子便秘みたい」
「へえ。猫も便秘になるんだね」葉月の後から覗き込むと、確かに
猫は臨戦態勢に入っていた。『フンヅマリ』というのも良いかもしれ
ない。
「そりゃなるでしょ、動物だもん。はい、この上にしましょうねぇ」
葉月はティッシュを猫の下に滑り込ませる。間一髪というまでもな
く、余裕で降下に間に合ったようだ。
二人で猫の糞をしている様を眺めていても仕方がないので、美樹
田はキッチンへ移動し、コーヒーを飲む為にコーヒーメーカに薬缶
で水を入れる。多少獣臭いが、考えてみれば、長閑で平和な休日で
はないか、と美樹田は短くなった煙草を灰皿へ押し付けた。後方の
部屋では、葉月が「出た出た!」と楽しそうに騒いでいる。どうや
ら無事に仕事を終えたようだ。本当に、長閑で平和だ。
猫のトイレも無事に済み、コーヒーも入った所で、美樹田と葉月
はソファに並んで座った。取り敢えず、名前の件は一旦保留という
事になり、口論の元はひとまず取り除かれた。葉月に部屋が既に散
らかっている事を注意されたが、これは葉月が美樹田の家に来る度
に交わされる会話なので、ニュアンスとしては「こんにちは」に近
い。それに、散らかしの神と美樹田は親友なので、これについては
仕方がない。葉月も、毎回言うわりには怒っていないので、もしか
したら半ば諦めているのかもしれない。
「ところでさ、どうしてその子、脇の下なんか怪我してたんだろう
ね」葉月はマグカップを両手で持ちながら聞く。
「さあ。原因は分からないけど、取り敢えずは、擦り傷や刺し傷じ
ゃなくて切り傷らしいよ。何ていうか、医者が言うには、刃物で切
られたんじゃないかって」美樹田は手刀で自らの脇の下を切る動作
をする。
「うそ、信じられない! 動物を平気で虐待出来る人間って最っ低!」
葉月は眉間に皺を寄せて嫌悪感をあらわにする。
「えっと、僕に訴えられても困るんだけど」
「別に賢二君に言っている訳じゃないよ。そんな事をする人に言っ
ているの。それとも、賢二君もそういう事した事あるの?」
「そういう事って?」美樹田は煙草を取りだし火を点ける。
「動物虐待。無抵抗な犬や猫を蹴っ飛ばしたり、ボウガンで撃った
りしたりするの」
「ないよ。する必要がないし、する気にもなれない。それと、ボウ
ガンで撃たれたのは鳥じゃないかな、確か」
「ほんっと、信じらんないよねぇ」
葉月は美樹田のさり気ない訂正を、あっさり流してコーヒーに口
を付けた。水に流す、ならぬ、コーヒーに流す、といった所だろう
か、などと美樹田は考えたが、もちろん黙っていた。
「けどさ、確かに医者は刃物のようなものって言ったけど、何も人
間が刃物を使って傷つけたとは限らないんじゃないかな?」
「どういう事?」
「うん。例えばガラスとかだって刃物のように切れるでしょ? と
なると、もしかしたら、誰かにやられたんじゃなくって、自分の不
注意で切ったのかも」
「えぇ〜、それはないよぉ」
「そうかな? 可能性としては、あると思うけど」
「いいえ、ありません。これは絶対誰かに傷つけられたのよ。そう
よ、その時の恐怖が今もありありとこの子の中にあって、それがス
トレスになって、今も便秘なんだわ。ほら、人間だってストレスで
便秘になったりするでしょう?」
「いや、どうだろう。少なくとも、僕はストレスで便秘になった事
は無いから分からないよ。けど凄い想像力だね。葉月さん、小説家
になれるんじゃない?」
「ねえ、真面目に聞いてる?」
「真面目には聞いているけど、僕はその線はないと思うな。小説や
ドラマならアリかもしれないけど、実際は大したこと無かったりす
るんだよ、そういうのって。それに、こいつだって僕が飼うって決
めた訳じゃないし」
「え? 飼わないの?」葉月は大袈裟に目を見開くと、美樹田を見
つめる。「この子、また棄てられちゃうの?」
「またって、元から野良かもしれないでしょ。でもまあ、そうだね、
いつかは放逐してあげないと。今は怪我をしているから仕方がなく
置いているだけだし、大体このアパート、動物を飼っちゃいけない
んだ」
「非道い! この子はわざわざ賢二君に助けを求めてきたのに、そ
れを仕方がないからなんて! もう、責任取ってあげなよ!」
「責任取るって、僕は何もしてないよ。それに何だか、その台詞っ
て少し背筋が寒くなるね」
「そんな台詞、言われた事あるの? 誰に?」
思わず思考をそのまま口に出してしまった美樹田だが、ゆっくり
と笑顔で問いかける葉月の様子を見て、失言であった事を悟る。
「えっと……、言われた事はないし、言われる予定もないけど、少
なくとも、葉月さん以外に言われたら絶句するかも」
「言われるような事があったのかしら?」
「それが無いから絶句するんだね。これ、青天の霹靂」
「じゃあ、私ならいいの?」
「何か、話が変わってきてない?」
「うん、そうね、ゴメン、今のは脱線しすぎかも」
葉月は目許の笑っていない、わざとらしい笑顔から通常の笑顔に
切り替わり、片目を瞑った。キュートだが、何処までが冗談なのか
計りかねる。
美樹田は体勢を立て直す為に、煙草の箱から一本抜き取り、口に
くわえる。
作品名:猫と二人- two persons with cat - 作家名:フジイナオキ