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フジイナオキ
フジイナオキ
novelistID. 20353
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猫と二人- two persons with cat -

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 美樹田が負傷した猫を拾ってから二ヶ月が過ぎた。大きな変化は
あまり無い。葉月は相変わらず一日置きに美樹田の家に来ているし、
怪我の治った猫は医者の太鼓判も貰い、日頃は部屋の隅か、押し入
れの中か、ビニールの買い物袋の中で日々を過ごしている。
 出窓は開けたままにしてある。もちろん故意にだ。たまに猫が薄
汚れている事があるので、昼間、美樹田が家にいない時間に、外へ
でも出掛けているのだろう。不思議な事に、四日も帰ってこなかっ
たのは最初だけで、それ以後は毎日家に戻ってきている。気ままな
猫という生き物にしては、割と律儀だ。
 一度居なくなってから、勝手気ままに美樹田の家に帰ってきたあ
の日。丁度一ヶ月前になるが、その日、美樹田が帰ると笑顔の葉月
と、太々しく部屋の隅で丸まって眠る猫が出迎えた。他人様の気持
ちも知らないで、と一瞬、猫に向かって睨みをきかせたが、届いて
はいないようだった。
「おかえり。ほんとに知らなかったの?」葉月は美樹田が持ってい
るビニール袋を受け取る。
「うん。じゃなきゃ、こんな時間に散歩なんて行かないよ」靴を脱
ぎながら答える。
「あ、なるほど。そういう事ね」葉月は目を細めて口元を上げる。
にやけた顔だ。「だったら、素直に探しに行った、て言えばいいのに」
「いや、あくまで散歩のついでだよ」
「ふうん、まあいいや」
 葉月はそう言うと、にやけた顔のまま美樹田に背を向け、猫の元
へと行く。言い訳として苦しいのは分かっていたが、妙な所で意地
を張ってしまう美樹田だ。
 美樹田は着ていたジャケットを脱ぐ。ハンガーに掛ける為に葉月
達のうしろを通って、奥にある寝室へ向かうと、冷たい風が迎える。
開けたままの出窓を閉めようと窓枠に手を掛けるが、何となく、開
けたままにしておいた。これも、ちょっとした意地だ。
「あ、そうそう」葉月は寝室に頭を覗き入れ、美樹田を呼ぶ。「そう
いえば賢二君、この子の名前って、もう考えてない?」
「ああ、そういえば、まだ決まってなかったね。何か思いついたの?」
美樹田は脱いだジャケットをハンガーに掛け、リビングへ戻る。
「うん。こんな感じでどうかな程度の提案だけど」
「変な言い回しだなぁ」美樹田は口元を上げる。「それで、どんな名
前?」
「シジミ」
「シジミ? えっと、貝の?」
「うん。この子ってシジミ柄してない?」
「シジミ柄というのは聞いた事がないけど……。まあ、確かに言わ
れてみれば似たような柄をしているかな。でもまたなんで?」
「うん……」そういうと葉月は猫の背中をさする。「この前ね、この
子が居なくなった日、私、夕食にシジミのお味噌汁を作ったでしょ? 
それで、居なくなったのが分かって、探しに行って、見付からなく
て、それで、帰ってきて夕食を暖め直して食べたじゃない? それ
が、何か印象深かったんだよね」
「それで、シジミ?」
「うん。私、シジミのお味噌汁って結構好きで、あの日も、自分で
言うのも何なんだけど、会心の出来だったわけ。でも、帰ってきて、
暖め直したのを改めて飲んだら、あんまり美味しくなかったんだよ
ね」
「ああ……」
 それはよく覚えている。特に食事中無言で会話がなかったわけで
はないのだが、それでもどこか気まずい雰囲気が、その場を包んで
いた。あの空気の中では、どんな美食も劣化してしまう。
「それで、さっきこの子の顔を見た時に、何でだかシジミのイメー
ジが浮かんできたんだよね。だからシジミ。どう? やっぱり変か
な?」
「まあ、確かに猫に貝の名称だからね、妙と言えば妙だけど」美樹
田は猫と視線を合わせる。「うん、悪くない」
「悪くない〜?」
「ごめん。良いと思うよ」
「思うぅ?」
「えっと、可愛くて素敵な名前です」
「よし、決まり! この子は今日からシジミ! よろしくね、シジ
ミちゃん」
「そいつ雄だよ」
「いいの! 可愛いのに男の子も女の子もないんだから。ねぇ?」
葉月はシジミをさする手を背中から腹に移している。シジミは為す
がままだ。
 こうして晴れて野良猫はシジミという名前が付けられた。それと
同時に、美樹田がシジミを飼うという事も、済し崩し的に決まった。
今、二人と一匹の居るマンションは、本来動物を飼えないのだが、
それはそれ。どうとでもなるだろう、という予想が確かに美樹田の
中にあった。また、その予想と同じくして、美樹田自身も正視出来
ないような予感もひっそりと、二十日大根のように控えめに、ひっ
そりと芽吹いていた。
 葉月はしきりに喉を鳴らすシジミの腹部を「おりゃ!」とか、「コ
ノヤロ!」などと呟きながらさすっている。一瞬、葉月は美樹田を
窺い、視線が合う。微笑み合う二人。こういう空間も、悪くない。
 美樹田は猫があまり好きではなかった。自分自身、幼い頃からそ
うだと思っていたので、それに対して違和感はなかった。
 他の動物に対しては興味がない。犬も、兎も、九官鳥も、パンダ
は、生で見てはみたいが、好きと言うほどのものではない。見たと
ころで、きっと「へえ……」と呟く程度だろう。しかし猫だけは、『好
きではない』と言えた。
 幼い頃、まだ実家の猫がいた頃。少年だった美樹田は、部屋のあ
ちこちに付いている毛が鬱陶しくて仕方がなかった。寝転がった自
分の服に付いた毛を取るのはとても面倒で、少年の美樹田はいつも
口を尖らせて毛取り作業をしていた。
 だからといって、美樹田少年は猫が嫌いなわけではなかった。思
い返してみれば、好きだったに違いない。鬱陶しくても、面倒臭く
ても、口を尖らせたまま、どこか楽しんでいた。猫の姿を見つけれ
ば、今の葉月のように腹をさすっていたし、居なくなった時も、母
に言われたとはいえ、本心から心配だった。父に慰められた時も、
納得がいっていなかった。
 猫があまり好きではなくなったのは、もう帰ってこない、と理解
し、自覚した時からだ。
 勝手だ。
 当時、美樹田少年はそう感じたのだが、猫とは勝手な生き物だ。
そもそも生物自体、全ての動物が勝手といえる。そういう意味では
人もまた動物。同じ事だ。人が人に、人が猫に、愛情を注ぐ行為も、
また勝手なのだ。
 どうして忘れていたのか。恐らく、特別な意味など無いだろう。
思い出は記憶に残るが、その時々の有り触れた風景のように、感情
は、記憶に残らない。