猫と二人- two persons with cat -
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今日も一日の仕事を終え、すっかりと日が暮れてしまった駐車場。
シジミと出会ったのはもう二ヶ月前、秋口だったはずだが、今では
陽が落ちる時間も早い。
ジャケットの隙間から入ってくる冷気に、身を縮める。色惚けし
た夏の残り香のような空気は一掃され、一瞬で現実に引き戻されそ
うな冷たい風。もう季節は冬に入ろうとしている。
砂利道の駐車場を歩き、車まで辿り着く。今日は同じ班の人間が
まだ職場に残っているので、美樹田の車以外にも、駐車場には、未
だ沢山の車が並んでいる。
車に乗り込もうとノブに手を伸ばすと、不意にトップカウルに目
がいく。猫の毛はない。そういえば、以前シジミを捜しに出た日、
仕事から帰る時、トップカウルには毛が付いていた。もしかしたら、
あの毛は拭き取り忘れたのではなく、最近付いたものだったのかも
しれない。冷静に考えてみれば、一ヶ月間も風に飛ばされずに付い
たままの筈がない。シジミは美樹田の知らぬ間に美樹田の家に戻り、
出会った時と同じような姿勢で居たに違いない。
考えてみれば分かる。そう口で言う事は容易いが、それはあくま
で落ち着いて考えての事だ。それでも分からない事、気付かない事
はある。いくら可能性を予測しても、引っ掛からない事もある。美
樹田自身がそうだったように、忘れている事も、ままある。
美樹田は車に乗り込むとセルを廻した。車体の割に低めのエンジ
ン音。アイドリングのまま、エンジンを暖める。
エンジンを暖めている間、美樹田は携帯電話を取りだし、葉月に
電話を掛けた。四回目のコール。
「もしもし、どうしたの?」
「おつかれ。僕の方はもう仕事あがったんだけど、葉月さんの方は
どう?」
「あ、そうなんだ、おつかれぇ。私の方も今あがった所。珍しいね
ぇ、こんな時間に終わるなんて」
「今日は残業してないからね。ところで、葉月さん今日も来るんだ
よね?」
「うん。行こうと思ってたけど、都合悪い? 今日は行かないでお
く?」
「いや、別に問題ないよ。ちょっとした確認」
「確認? なんの?」
「いや、まあ、色々と」
「ふうん、まあいいや。それより、これくらいの時間だったら、賢
二君の方が早く家に着くよね? だったら、帰りにホームセンタに
寄って、シジミちゃんの餌を買っておいてくれない? そしたら私
は夕食の材料だけ買っていくから」
「分かった。ドライフードでいいんだよね?」
「そうそう、カリカリ。じゃあ、また後で。よろしくね」
「うん。じゃあまた」
そこまで言うと、美樹田は携帯電話を閉じた。実があるかどうか
という判断さえ付きづらいほどの長さの会話だったが、そんな中で
も多少緊張してしまった。普段通りの口調で話そうと思っていたの
だが、さて、どうしたものか。
地球に全く優しくない、アイドリングをしたままのエンジンは、
時間をおいた分だけ、当然のようにすっかりと暖まっていた。暖房
も程良く効き始め、いつでも発進する準備は整ったのだが、美樹田
は煙草を取りだし、抜き取った一本を口にくわえて火を点けた。
運転席の窓を5センチほど下げる。外の空気と、中の空気が入れ
替わろうとする為、微かな風が生まれる。一口目の煙を大きく吸い
込み、緩やかな風に交差させるように、たんぽぽの綿毛を吹くみた
いに、ゆっくりと吐き出す。
どうやって話を切り出そうか。
控え見に開いた窓の隙間に向かってカーブを描く煙草の煙を眺め
ながら、美樹田はこれから起こるであろう、葉月との会話をぼんや
りとシミュレートする。最悪のケースは、美樹田の提案を、葉月が
そっけなく断ってしまう場合だ。そうなってしまっては、美樹田も
あっさりと引き下がるより他はない。払う対価は、目も当てられな
いような気恥ずかしさに、そこへいたるまでに費やした心労くらい
か。そんなに大した問題ではないかもしれない。
美樹田は、そこまで考えると小さな笑みがわき上がってきた。本
当に、大した事ではない。
ダッシュボードのデジタル時計で時刻を確認する。時刻は六時。
これから急いで帰れば、ホームセンタへ行く前に、不動産屋に立ち
寄る事が出来る。提案する時の資料は、多い方がよい。何事も、慎
重に、確実性を重視する美樹田だ。
短くなった煙草を、車に置きっぱなしの空き缶に押し込む。車の
アイドリングを止め、シフトレバーを切り替えて、車を出した。ま
ずは不動産屋へ。いきなり望みの物件があるとは思わないが、見な
いよりはマシだろう。
美樹田は、いつもの帰り道より僅かにスピードを上げて車を走ら
せる。これからの事、二人の事、そんな事をぼんやりと考えていた。
黄色信号。
アクセルを踏み込み、ぎりぎりのタイミングで信号を通過する。
いつもならスピードを緩めて停まる所だが、行こうと思えばいける
のだ。ようは切っ掛けと、タイミング。通過してしまえば、何て事
はない。
切っ掛けは、一匹の野良猫だったかもしれない。白い、靴下を履
いたような柄の猫。そいつのお陰、とまで言ってしまうと、何処か
負けたような気がするので、その部分は忘れてしまおう、と美樹田
は考える。思っていたよりも小さな事に拘り、尚かつ、妙な負けん
気がある自分に対して、僅かに頬があがる。
美樹田は猫があまり好きではない。
けれど、哺乳類にして貝類の名称を冠するような猫なら、そんな
に悪くもない。
『悪くもない』と『好き』は距離にして数センチ、袖が触れ合う
距離である事は知らない振りをしよう。
窓の僅かな隙間から、勢いよく入ってくる風が冷たくて、美樹田
は窓を閉めた。
秋は終わり、もうすぐ季節は冬。
まだ、一年は終わらない。
作品名:猫と二人- two persons with cat - 作家名:フジイナオキ