扉の向こうは別世界
彼女は壁に両手をついたまま、ゆっくりとカニ歩きを始めた。すぐに両親の寝室の扉があり、ドアノブに手をぶつけながらもなんとか進む。
「ひっ」
思わず声を上げる。扉の隣の壁に、茶色い染みがあったのだ。一瞬それが人の顔に見えて、びっくりしてしまった。
「だれ? こんなところに染みをつくったの……」
言っている途中で気づく。染みをつくった張本人は、梓自身だった。
半年ほど前。父の部屋にコーヒーを持っていってくれと母に頼まれたのだ。コーヒーはカップになみなみと注がれていて、持っていくときどうしてもふらふらとなってしまった。こぼさないように、こぼさないように、とカップに集中するあまり、転んでしまったのだ。
それで、コーヒーを壁にかけてしまった。
そんなこともあったなぁ、と少し和んで、梓はまた横歩きを始めた。
ようやく右手の壁が終わり、風呂と廊下への短い廊下に到着した。これでもう大丈夫、と彼女は壁から手を離し、その廊下へと足を踏み入れた。
ぐにゅり、と左足が何かを踏んだ。一瞬遅れて、下からギャッと何かが鳴いた。
驚いて左足を上げる。階段のときと同様、驚きすぎて声すら出なかった。
恐る恐る梓は下を見おろす。その何かは、怒ったように梓を睨んでいた。
「な、なんだ、ちびちゃんか」
飼い猫だった。生まれつき体が小さいから『ちび』という名前なのである。
ちびはキッと梓を睨み続けていたが、梓は逆に安心した。ゴキブリか何かを踏んだのかもしれないと思ったのである。踏んでいたのは、ちびのしっぽだった。
梓は膝を折り、ちびのしっぽを撫でた。
「ごめんね、痛かったよね。でも、こんなところで寝てちゃだめだよ」
ふーっ、とちびが威嚇し、どこかへ駆けていってしまった。ほんとにごめんね、と梓は心の中で囁いた。
いよいよ、トイレに着いてしまった。
ごくりと生唾を飲み、トイレに入っていく。
扉を閉めるかどうか、梓はしばらく悩んだ。
実は、今だに彼女はトイレの扉だけはどうしても閉められないのである。一番怖いのがトイレの扉だった。
空間が狭ければ狭いほど、人間はより孤独を感じてしまう。
梓も、トイレの独特な閉塞感だけは苦手だった。学校のトイレはまだいい。個室に入ってもトイレの外が騒がしいため、まだ気が紛れる。
問題はまさに今で、昼間の学校とは違い、さざめきの一つさえしない状況なのだ。
両親も起きてこないし、今くらい開けたままでもいいんじゃないか。
そんな甘い考えがちらつくも、梓は気丈に振る舞うことを決めるのだった。
「中学生は、もう大人です」
がちゃり、と扉を閉める。寝間着と下着をおろし、便座に腰掛ける。
「うっ」
ぎゅっと、空気で首を締め付けられるようだった。前も後ろも、右も左も上も下も、六つの平面全てが梓を圧迫してくるように錯覚した。
目がくるくると回る。前を見たり、上を見上げたり、下を見下ろしたりと、視線がせわしない。
ばっと後ろを振り返る。当然何もないし、強いて言えば便器のふたと水洗タンクがあるだけだ。
「怖くないよ。幽霊とかいないし。ぜんっぜん怖くないよー」
ともかく、と用を足す。ぶるぶる、と頬が震え、腰から頭にかけて筋肉が弛緩していく。ほぅ、とひとまず息をついた。
残尿感だけはどうにか解消した。それでも、まだ梓は瞬きすらはばかられるほどびくついていた。
遠くから、ちびがニャアと鳴いた。
扉の向こうの、遠くから。
「怖くなーい、よぉ……」
声が小さくなる。梓の中で、今まで考えまいとしていたことが駆け巡った。
扉の向こうのことである。
別世界。そんなものにつながるわけがないということは頭では理解している。理屈として判っている。でも、もしその理屈をねじ曲げられたら?
理解しているからこそ、それが瓦解するのが恐ろしいのだ。梓は今まさにそういう疑心暗鬼に駆られていた。
そして彼女は、ついに黙ってしまった。
全身が石化したようにぴたりと固まり、じっと目の前の扉を見据えるのみとなってしまう。ひとり言を呟けたのは、まだまだ余裕があった証拠なのである。
そのまま時間が過ぎていく。
このままこの場で固まっていた方が勇気が鈍るのではないか。
しかし、人間の体は恐怖という本能には従順だった。
それからどれほどの時間が経っただろう。
梓はついに、小さくしゃくり上げ始めていた。どうして怖いのか、何がそこまで怖いのか、自分でもうまく説明できなかった。整理がつかなかった。ただ彼女は、親を探す幼児のように怯えるだけだった。
はたと、梓は目を薄く開けた。
まだ彼女はトイレの中だった。精神的疲労のためか、それとも夜更かしのためか、いつの間にか便座の上でうたた寝をしていた。
「ねむぅい……」
ぼそり、と口から漏れる寝ぼけ声。
目の前の扉を見る。梓の中で疑問が浮かぶ。
どうして、こんなものを怖がっているのだろう。
あまりの眠気で恐怖が消え去っていた。それとも、あんまり長いこと怯えたために、緊張が飽和してしまったか。
眠い、早くベッドに横になりたい、そんな気持ちが胸中を占めていた。
彼女は寝ぼけ眼のまま下着と寝間着の下を穿き、立ち上がってドアノブに手をかける。
「明日も学校、だからぁ、早く、寝なきゃ……うぅん」
ドアノブを回し、扉を押す。
――サァァ。
この場には似つかわしくない音と空気が、梓の肌に触れた。鼻の奥がしゅっと乾く。
「んー」
眠気で閉じかけた視界で、梓は前方をじっと睨む。
扉を開ければ、そこに廊下と壁があるはずだった。しかし、梓がとらえた景色は――あまりにも広大すぎた。
視界いっぱいに広がる一面の砂。梓の脳裏に『砂漠』という単語がちらつく。
鼻を啜ろうとしたが、空気が乾燥しているのでむせてしまいそうだった。
砂はどこまでもどこまでも続いている。砂の地平線から上半分は、群青色の空が占めていた。梓は首を傾げながら上空をとらえる。
黄金色にてらてらと輝く丸いそれは、二つ並んで空に浮かんでいた。梓が思い浮かべたそれの名称は『月』だった。
「お月さまが、ふたつ?」
突如、あたりに突風が吹く。風は砂塵を巻き上げ、舞い上がる砂は梓の頬や手足を打った。痛くて、少しだけこそばゆかった。薄く開いた瞳を、さらに薄める。
おかしいな、家の中なのに風が吹いてる、梓はぼんやりと吐息を漏らすように言う。
おかしいな、おかしいな。
「あ、そっか夢か」
ばたん、といったん扉を閉じ、再度扉を開ける。
今度こそ、梓の眼前に廊下と壁が現れる。さきほどの風は止んでいた。いや、最初から風など吹いていなかったのかもしれない。無機質なのに安心感のあるその光景を、彼女は数十秒眺める。
かくん、と梓の頭が揺れる。
「ねむぅい……」ぱたり、ぱたり、と彼女は歩きだした。「ねるぅ」
たんたん。リズムよく廊下を歩き。
とんとん。リズムよく階段を上り。
たんたん。またリズムよく廊下を歩き。
梓は自分の部屋の扉を開け、テレビと明かりを消し、倒れ込むようにベッドへ横になった。
梓の寝息が聞こえたのは、それからほんの一分足らず後のことであった。