扉の向こうは別世界
梓《あずさ》は昔から、完全に閉め切られた扉が怖かった。
扉を閉め、また開いたとき、もし扉の向こうが別の世界になっていたら、という想像をよくしてしまう。
万が一そうなった場合、自分はどうすればいいのだろう、などと考えては、あまりの怖気で身を縮みこませてしまう。
こういう身も蓋もない妄想は、幼年期にはよくあることだ。もし無人島にひとりぼっちにされたら、もし殺人鬼に監禁されてしまったら、もし宇宙人に誘拐されたら。感受性の高い子供はテレビや漫画にすぐ影響されてしまうし、このような取り越し苦労な不安に苛まれるものである。
特に梓は、そういう想像力に長けた子供だった。
梓の想像する『扉の向こうの世界』はその時々で様々だ。それが都会の中心街であったり、荒廃したどこぞの地であったり、野生動物の鳴き声が響くジャングルであったり、というふうに。
むしろ、彼女にとって『扉の向こう』がどんな世界であるのかは、さして意味はない。問題はその場所ではなく、扉が別世界につながること自体が恐ろしいのだ。
梓は、今年の春に中学生になった。
いよいよ彼女も、有りもしない恐怖に怯えていては笑われてしまう身分となってきた。
今まではトイレで用を足すときでさえ扉を開けたままだった。風呂も、寝室も、リビングも、冷蔵庫やクーゼットの扉に至ってもそうだった。
この世代の少女にとって、中学生という存在はどこか大人びて見えるものである。背もぐんと伸びる時期だし、小学校までになかった制服着用という義務もある。実際、中学三年生などは大人と同等の背丈を持つものだっている。
なにより、中学からは勉強やスポーツなどの競いごとへの気負いも強まる。周りと競うということは、それだけ自分を大人へと高める行為でもあるのだ。
大人にならなければいけない。彼女自身もそれを痛感していた。
季節は春で、時間は深夜の0時を回ったところだった。
やけに眠りが浅いことに、梓は不快感を覚えた。加えて、彼女は軽くもよおしていた。
「中学生はおねしょなんてしないから、大丈夫だよ」
一人きりの部屋で呟き、布団を頭からかぶる。自分に言い聞かせるも、このままでは眠れないことなど、自明だった。
かち、こち、と壁掛け時計の針の音がやけに耳に障る。
全身がもぞがゆい気もする。
枕の位置をいくらなおしてもしっくりこない。
決して苦しい姿勢ではないはずなのに、呼吸が乱れる。
瞼の裏の眼球がくるくるとせわしなく動く。
これだけ寝付けが悪かった日がかつてあっただろうか。そんな苛立ちを覚えるほどだった。
もう、と梓は声を漏らし、布団を足で押し上げた。立ち上がり、電気を点けると、おぼつかない調子で上下する胸を撫でつけた。
ふと、部屋の扉へと目を向ける。
扉は、こぶし一つ分ほど開いていた。クローゼットも、テレビ台の開き戸も、微妙に開いたままだ。小学生までで身についた悪い癖である。扉を閉める習慣はまだまだ治っていなかった。
『中学生になってまで、だらしないわね梓は』
つい最近、母がそんなことを言っていたのを思い出す。母はあくまで茶化し半分だったようだが、それでも梓にはこたえた。
あんた、いつまでも子供のまんまね、なんて言われたようなものだったから。
ため息を吐き、ぱたんぱたんと部屋中の扉を閉めていく。怖くないよ、怖くないよ、そう呟きながら。
それから、梓はテレビを点けた。中学校の入学祝いに祖父がプレゼントしてくれた小型テレビだ。父が、勉強するときはちゃんと消さないとだめだよ、と言っていた。勉強に差し支えるからと、あまりこのプレゼントをよく思っていないようであった。
音量を最小限のぎりぎりまで落とす。両親を起こしてしまえば叱られるかもしれない。それでもテレビを点けておくのは、少しでも部屋を賑やかにしておきたいという、梓なりのせめてもの抵抗だった。
「怖くない、怖くない」
梓は扉を開き、廊下へ出た。
トイレは一階。梓の部屋は二階の奥だ。それに廊下は真っ暗で、廊下の明かりのスイッチは階段付近にある。
この位置関係を改めてうらんだ。どうして、自分の部屋の隣にはトイレがないのだろう。
ともかく、早く行ってしまおう。頭の中でぐるりぐるりとうずまく不安を、梓は必死に取り払った。さぁ行くぞ、と歩を進める。
ぎし、ぎし。
深夜に床板を踏む音は、たとえ自分が鳴らしているものでも恐怖心をあおる。
少しでも音をなくそうと思った。昔、児童文学で忍者の話を読んだことがある。
床板の上を滑らせるように、足を前へ前へと出していく。かつて忍者はこうして城へ忍び込んだらしい。
抜き足、差し足、忍び足。
しかしこれがやけに進みにくい。それに、これでは忍者というより、
「あたし、泥棒みたい」
言って、梓は後悔した。今度は、泥棒に遭遇したらどうしよう、という想像をしてしまったのである。
いったん部屋に戻ろう、そんな弱音が心の中で沸き、梓は頭を振った。どうせトイレ行かなきゃ眠れないでしょ、と気を持ち直した。
「泥棒なんかいませんよ」
呟きながら、すっ、すっ、と慎重に進み、ほどなくして階段付近まで到着する。
手を伸ばし、電気を点けた。ぱちっぱちっと蛍光灯がまたたき、すぐに廊下が照らされる。
ここで梓は、いつの間にか自分が中腰になっていることに気づいた。足はきりきりとつま先立ち、手は何かから身を守るように腕を抱いていた。
自分のその姿勢が恥ずかしくて、慌ててピンと背筋を伸ばす。家族の誰かに見られていなかったかと階段の下を見下ろしたが、そもそも暗くてよく分からない。そして、すぐに目を背けた。暗い場所は出来るだけ見たくない。
目をそらしながら階段の明かりを点ける。ちゃんと明かりが点いたのを確認して、梓は階段を降り始めた。
どこまで臆病なんだろう、自分。梓は自らの情けなさをひそかに嘆いた。
と、その瞬間、梓の右足が階段を一段踏み外した。どん、とさらに一つ下の階段の板を踏む。
あまりの突然さの出来事に、声も上げられなかった。腹の中身がふわりと浮いた気がした。ばくばくと心臓が鳴っている。両手はとっさに手すりを掴んでいて、ひたすら大きな瞳をぱちくりさせていた。
梓はその体勢のまま、静かに心臓の高鳴りがおさまるのを待った。
「ちっ、ちびっちゃいそうだったぁ」
ようやく口から出た言葉は、間抜けなものだった。
結局、階段を降りるには廊下のときよりも時間がかかった。
階段を右に曲がると、右手に両親の寝室があり、その先をさらに右に曲がると風呂とトイレがある。
もうすぐだ。息をのみ、梓は前を見た。一階の廊下の一番先、梓の遠い正面には玄関がある。
玄関のガラスは半透明で、どうしてか、その向こうに人の影があるような気がした。
もちろん気のせいだ。月明かりの入れ具合でそう見えるとのだ。
分かっていたけれども、やっぱり怖かった。
梓は右手の壁に対面し、そこに両手をついた。玄関の方を見ないようにする作戦である。壁をずっと見ていれば怖くないはず。
扉を閉め、また開いたとき、もし扉の向こうが別の世界になっていたら、という想像をよくしてしまう。
万が一そうなった場合、自分はどうすればいいのだろう、などと考えては、あまりの怖気で身を縮みこませてしまう。
こういう身も蓋もない妄想は、幼年期にはよくあることだ。もし無人島にひとりぼっちにされたら、もし殺人鬼に監禁されてしまったら、もし宇宙人に誘拐されたら。感受性の高い子供はテレビや漫画にすぐ影響されてしまうし、このような取り越し苦労な不安に苛まれるものである。
特に梓は、そういう想像力に長けた子供だった。
梓の想像する『扉の向こうの世界』はその時々で様々だ。それが都会の中心街であったり、荒廃したどこぞの地であったり、野生動物の鳴き声が響くジャングルであったり、というふうに。
むしろ、彼女にとって『扉の向こう』がどんな世界であるのかは、さして意味はない。問題はその場所ではなく、扉が別世界につながること自体が恐ろしいのだ。
梓は、今年の春に中学生になった。
いよいよ彼女も、有りもしない恐怖に怯えていては笑われてしまう身分となってきた。
今まではトイレで用を足すときでさえ扉を開けたままだった。風呂も、寝室も、リビングも、冷蔵庫やクーゼットの扉に至ってもそうだった。
この世代の少女にとって、中学生という存在はどこか大人びて見えるものである。背もぐんと伸びる時期だし、小学校までになかった制服着用という義務もある。実際、中学三年生などは大人と同等の背丈を持つものだっている。
なにより、中学からは勉強やスポーツなどの競いごとへの気負いも強まる。周りと競うということは、それだけ自分を大人へと高める行為でもあるのだ。
大人にならなければいけない。彼女自身もそれを痛感していた。
季節は春で、時間は深夜の0時を回ったところだった。
やけに眠りが浅いことに、梓は不快感を覚えた。加えて、彼女は軽くもよおしていた。
「中学生はおねしょなんてしないから、大丈夫だよ」
一人きりの部屋で呟き、布団を頭からかぶる。自分に言い聞かせるも、このままでは眠れないことなど、自明だった。
かち、こち、と壁掛け時計の針の音がやけに耳に障る。
全身がもぞがゆい気もする。
枕の位置をいくらなおしてもしっくりこない。
決して苦しい姿勢ではないはずなのに、呼吸が乱れる。
瞼の裏の眼球がくるくるとせわしなく動く。
これだけ寝付けが悪かった日がかつてあっただろうか。そんな苛立ちを覚えるほどだった。
もう、と梓は声を漏らし、布団を足で押し上げた。立ち上がり、電気を点けると、おぼつかない調子で上下する胸を撫でつけた。
ふと、部屋の扉へと目を向ける。
扉は、こぶし一つ分ほど開いていた。クローゼットも、テレビ台の開き戸も、微妙に開いたままだ。小学生までで身についた悪い癖である。扉を閉める習慣はまだまだ治っていなかった。
『中学生になってまで、だらしないわね梓は』
つい最近、母がそんなことを言っていたのを思い出す。母はあくまで茶化し半分だったようだが、それでも梓にはこたえた。
あんた、いつまでも子供のまんまね、なんて言われたようなものだったから。
ため息を吐き、ぱたんぱたんと部屋中の扉を閉めていく。怖くないよ、怖くないよ、そう呟きながら。
それから、梓はテレビを点けた。中学校の入学祝いに祖父がプレゼントしてくれた小型テレビだ。父が、勉強するときはちゃんと消さないとだめだよ、と言っていた。勉強に差し支えるからと、あまりこのプレゼントをよく思っていないようであった。
音量を最小限のぎりぎりまで落とす。両親を起こしてしまえば叱られるかもしれない。それでもテレビを点けておくのは、少しでも部屋を賑やかにしておきたいという、梓なりのせめてもの抵抗だった。
「怖くない、怖くない」
梓は扉を開き、廊下へ出た。
トイレは一階。梓の部屋は二階の奥だ。それに廊下は真っ暗で、廊下の明かりのスイッチは階段付近にある。
この位置関係を改めてうらんだ。どうして、自分の部屋の隣にはトイレがないのだろう。
ともかく、早く行ってしまおう。頭の中でぐるりぐるりとうずまく不安を、梓は必死に取り払った。さぁ行くぞ、と歩を進める。
ぎし、ぎし。
深夜に床板を踏む音は、たとえ自分が鳴らしているものでも恐怖心をあおる。
少しでも音をなくそうと思った。昔、児童文学で忍者の話を読んだことがある。
床板の上を滑らせるように、足を前へ前へと出していく。かつて忍者はこうして城へ忍び込んだらしい。
抜き足、差し足、忍び足。
しかしこれがやけに進みにくい。それに、これでは忍者というより、
「あたし、泥棒みたい」
言って、梓は後悔した。今度は、泥棒に遭遇したらどうしよう、という想像をしてしまったのである。
いったん部屋に戻ろう、そんな弱音が心の中で沸き、梓は頭を振った。どうせトイレ行かなきゃ眠れないでしょ、と気を持ち直した。
「泥棒なんかいませんよ」
呟きながら、すっ、すっ、と慎重に進み、ほどなくして階段付近まで到着する。
手を伸ばし、電気を点けた。ぱちっぱちっと蛍光灯がまたたき、すぐに廊下が照らされる。
ここで梓は、いつの間にか自分が中腰になっていることに気づいた。足はきりきりとつま先立ち、手は何かから身を守るように腕を抱いていた。
自分のその姿勢が恥ずかしくて、慌ててピンと背筋を伸ばす。家族の誰かに見られていなかったかと階段の下を見下ろしたが、そもそも暗くてよく分からない。そして、すぐに目を背けた。暗い場所は出来るだけ見たくない。
目をそらしながら階段の明かりを点ける。ちゃんと明かりが点いたのを確認して、梓は階段を降り始めた。
どこまで臆病なんだろう、自分。梓は自らの情けなさをひそかに嘆いた。
と、その瞬間、梓の右足が階段を一段踏み外した。どん、とさらに一つ下の階段の板を踏む。
あまりの突然さの出来事に、声も上げられなかった。腹の中身がふわりと浮いた気がした。ばくばくと心臓が鳴っている。両手はとっさに手すりを掴んでいて、ひたすら大きな瞳をぱちくりさせていた。
梓はその体勢のまま、静かに心臓の高鳴りがおさまるのを待った。
「ちっ、ちびっちゃいそうだったぁ」
ようやく口から出た言葉は、間抜けなものだった。
結局、階段を降りるには廊下のときよりも時間がかかった。
階段を右に曲がると、右手に両親の寝室があり、その先をさらに右に曲がると風呂とトイレがある。
もうすぐだ。息をのみ、梓は前を見た。一階の廊下の一番先、梓の遠い正面には玄関がある。
玄関のガラスは半透明で、どうしてか、その向こうに人の影があるような気がした。
もちろん気のせいだ。月明かりの入れ具合でそう見えるとのだ。
分かっていたけれども、やっぱり怖かった。
梓は右手の壁に対面し、そこに両手をついた。玄関の方を見ないようにする作戦である。壁をずっと見ていれば怖くないはず。