書評集
井上靖「比良のシャクナゲ」
井上がこの小説で行っていることは、人間性を否定しながらそれでも人間性がいやおうなくにじみ出てしまう、そういう老学徒を描くことで、人間性を巧妙に美化することである。主人公三池俊太郎は、解剖学に一生をささげた80になんなんとする学者であり、孤独や絶望など生白くて気に食わんと言うし、家族や親戚との関係も煩わしくて仕方がない。つまり、普通に笑ったり泣いたりして人間らしく生きる生き方を拒絶し、ひたすら学問的達成に無心に突き進む。ところが、そうでありながら、彼自身、自分がある一時期は青春の苦悩にさらされていたことを認めるし、ある時期以降は世俗的な名誉も求めるようになったことも認めるし、親戚の娘への親愛の情や、シャクナゲなど自然の景物に対する感受性も垣間見せる。
まず、ここにあるのは、時系列的なドラマではなく、認識のドラマである。人間性と言うものが、否定を経て再び弱く肯定される、その認識的な系列の引き起こすドラマである。論理のドラマと言ってもいい。次に、ここにあるのは、弱くて希少であるがゆえに価値が高められるという人間性の美化作用である。人間性を否定し、人間性を希少なもの、滅びんとするものとすることによって、その人間性を却って尊くする作用である。さらには、一種の屈折の美と言うものがある。否定を経て弱く肯定されるという屈折を経た人間性と言うものは、生々しく主張される人間性よりも、実はより興趣深く、実はより人間らしくすらある。
そこで巧妙に美化された人間性と言うものも、実に不安定であり、いつまた三池によって否定されるか分からないものだ。つまり、三池の人間性は常に存在の危機に立たされている。このスリルが、この作品を一貫して不安定の快楽を生むものとしている。