書評集
井上靖「闘牛」
まず、叙事と叙情が小説においては特に不可分であることを如実に示している。この小説にあるのは、甘ったるい感傷でも苦い憂鬱でも微細な情緒でもない。この小説にあるのは、闘牛大会をやり通そうとする主人公津上の張り詰めた意志であり、そして、そのために一つ一つの手続を敢行したり、ビジネスの戦いを繰り広げたりする意志である。小説においては感情よりも意志の方が重要なのである。そして、この意志の時的積み重ねにより引き起こされる抒情、空間的ネットワークにより引き起こされる抒情が、この小説の感動を形成している。この小説「闘牛」において、戦っているのは牛ではない。むしろ人間同士である。人間同士が一つの事業を巡って策略をめぐらしながら戦い合っているのである。その戦う意志の引き起こす清冽な感動こそが、この小説の実現している叙事的な抒情なのだ。
そして、この叙事の連なりに抒情的に関与してしまう読者を代理しているのが愛人さき子の存在である。読者は意志を貫いていく津上に対して愛憎を抱く。叙事の進行に絡みつくようにして、読者は津上に様々な感情を抱く。その感情を代理するのがさき子である。井上は作中に読者の代理人を忍び込ませ、抒情の発生を単純に読者にゆだねることはしなかった。抒情の発生はまずさき子において起こるのであり、その抒情と読者の抒情が共通したり反目したりして、叙事をめぐる抒情を非常に複雑なものとしている。あるいは、読者はさき子の存在によって、さき子を介して、作品に抒情的に関与することを余儀なくされるのである。さき子の存在は、叙事と叙情をつなぐ媒介の役割を果たしている。