書評集
安部公房『壁』
安部の『壁』の世界は、砂漠の世界である。意識と対象が明確に分離され、意識と対象の間に厳然とした距離があり、世界と自己とを豊かに結ぶ身体が存在しない。事実、第二部では主人公は体を失い眼のみになってしまうのであり、これは主体が視線によって対象をとらえるだけで身体と世界との照応が存在しないことを象徴しているだろう。砂漠の世界を支配しているのは辛うじて物理法則のみである。そして、砂漠は圧倒的な量塊がある。この物理法則に支配された不毛な充実こそが『壁』の作品世界である。
人間は、自己の身体と世界との間で多様な意味を交換し合う。この壁は触れるもの。この梨は食べるもの。そして、視力といっても、単純にものを見るだけではない。我々は見ると同時に触れても嗅いでもいる。そして、人間は行動することによって世界を組み換え、また世界の構造によって自らの行動を規律する。このような身体と世界との豊饒な意味づけ合いこそが人間の世界との関わりなのである。
ところが、安部はそのような身体の位相を無視する。無視することにより、現実の豊饒な意味合いを拒絶し、ただ法則のみが支配する砂漠を自らの視線で動かしていくだけだ。かくして、世界の文法は次々と無視されていき、世界の色や味や手触りはどこまでも無化されていき、そこに残るのは、ただの味気ない存在そのものとそれを規律する法則だけだ。
ところが、ここには価値の倒置がある。確かに『壁』の世界は不毛だ。だが、不毛であるがゆえの、単純さ、力強さ、大きさ、視力の圧倒的な強さ、それが感じられる。安部は身体に根差した現実世界よりも砂漠の方が好きなのである。だから、『壁』からは、むしろ、その不毛さが転換された後に華々しく主張される単純な充実と意識による支配の圧倒的魅力を感じる。