書評集
大江健三郎『芽むしり仔撃ち』
大江健三郎の最初の長編小説。昭和33年6月に発表された。大江は昭和10年1月31日生まれだから、23歳の時の作品である。
ストーリーの大まかな流れには必然性を感じるし、ひとつずつ添えられる細かな出来事にも特に不自然さは感じなかった。もちろん、登場人物の感情を高ぶらせるような出来事が立て続けに起こるのは日常生活に比せば不自然であるが、小説を面白くするには必要なことであるから、少しも悪いとは思わない。
技術的な面を言うと、凝った比喩が多く使われているが、どうしてもそういう部分は読みづらいと感じてしまった。立ち止まって頭の中で喩えるものと喩えられるものをきちんと結びつけて理解しようとすると案外面白いことを言っていることが分かるのだが、全体的に、比喩の部分は少々浮き立っていると感じた。
>村長の苛立った重い声はぶんぶんいう羽虫のざわめきのように降りそそいで、僕らの垢にまみれた躰の上にたまり、かすかな水音とからみあった。(p30)
このような部分は、逆にイメージを持ちづらいと感じた。でもこの点は、じっくり読み込むならばあまり気にならないことなのかもしれない。また、比喩が読者に豊かなイメージを持たせて作品をより繊細にすることも否定できない。
また、今の引用部にもあるように、垢や血や汚れや臭いを執拗に描いているのも特徴的だった。日常生活ではこういったものは注意を引きはするが、描写するのは極力避けられるものである。小説には映像などがなく言葉がすべてなので、語ることがはばかられるようなものでも、それが観察者の意識に強く刻まれるものである以上描写せざるを得ない。また、そういうものをあえて描くという行為は文学的だと感じる。文学は、日常的な言語世界への挑戦であるという一面も持っていると思うからだ。
次に、この小説では主人公以外の人物はその内面がまったく描かれていない。主人公以外の人物の内面は、外面から推測されるにとどまっている。これは、この小説が子供の視点から書かれているからだと思う。子供は相手の心情を深く洞察する能力に乏しいからである。
この作品から容易に分かることは、それが少年たちを取り囲む「壁」を描いたものであるということだ。もちろんここで言う「壁」とは比喩であって、具体的な壁そのものを指すのではない。それは少年たちを阻むもの、束縛するものであり、自由を奪うものだ。それは社会的な制度(W1)であったり、物理的に脱出を阻むもの(W2)であったり、大人たちの犯罪少年に対する懲らしめてやろうという気持ち(W3)だったり、大人たちによる子供の行為に対するさまざまな禁止(W4)だったりする。
はじめ少年たちは感化院にいた。少年矯正制度によって、感化院の中に閉じ込められていたのである。そこでは少年たちの行為は監視され、規則に反する行為は厳しく罰されたはずだ。だから、W1とW4の壁の中にいたのである。
その子供たちが、疎開によってある村にやってくるが、疫病の流行とともに村人は別の村へ逃げ、村と外界を結ぶ通路を閉鎖する。少年たちは取り残されるわけだが、そこでは、制度も大人たちによる禁止もない。だから、今度は物理的な壁W2が設定されるわけだが、一方でW1とW4の壁は取り払われる。少年たちは壁の中で壁の中の世界を「広げ」ようとする。ここで「広げ」るといったのもまた比喩であり、生活を豊かで楽しみの多いものにするといった意味である。主人公は朝鮮人である李との友愛を深めるし、少女との愛もはぐくむ。少年たちは大人たちから解放されて、つかの間の自由を謳歌する。
だが村人の帰村により、再びW1とW4の壁が復活し、さらに村人不在の間に子供たちが村を荒らしたことにより、W3の壁が強化される。
主人公は村人たちに屈服せず村を出ることになるが、結局、制度や、逃げる先の村の大人たちによる懲罰感情からは逃れることができないはずだ。W1とW3の壁は残るのである。
このように、この小説では、最初から最後まで主人公は壁の中にいる。そして、まさにそのことが、この物語が必然性によって貫かれていることを示していると思う。どういうことかというと、人間は社会を形成する一方で必然的に社会からの束縛を受けていて、そこから逃れることはできないということだ。人間は社会という壁の中に取り込まれているのである。たとえば罪を犯すことは法によって禁じられているし、法によらなくても、社会感情によって、奇声を発して走り回ったりすることは禁じられている。学生になれば学校のスケジュールによって生活は規定されるし、会社に勤めれば仕事のスケジュールに規定される。
感化院の少年たちにとっては、社会の壁は、少年矯正制度という形で現れる。それは普段あまり意識されない社会という壁がその強度を増し具体化して、誇張された形で現れたものである。この小説の主人公を取り巻く壁は、社会の壁の誇張されたものに他ならない。この小説を読むことで、読者は自分もまた壁の中にいることに気づかされ、壁と自分との関係について考えさせられるのである。
壁の中で主人公たちは、壁に対して絶望的な反抗をする。最後には、壁は大人たちの要求という形で現れる。村長は子供たちに、子供たちが村人不在の間に村を荒らしたことを許す代わりに、村人が子供たちを見捨てて逃げたことを忘れろと要求する。主人公だけがその要求に屈しなかったため、危うく村人に殺されかける。
壁に反抗するのは子供の特権だ。子供は不条理に敏感である。人間は社会化されるにつれて壁の中に安住する方が、たとえその壁が不条理なものであったとしても、メリットが大きいことに気づいていくのだが、子供はそのメリットにあまり気づいていないし、目先の不条理の方が子供の目にはつきやすいのである。
壁があり壁に反抗するものが処罰されるという定型的な筋が基調になっているが、壁にあくまで抗し続ける主人公の姿は、我々に、自分を束縛する壁が不条理なものでないか今一度問い直すきっかけを与えるものである。